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映像の哲学 第3回<無料公開>

真剣

 -『生きるべきか死ぬべきか』のシャイロック-


 私はたった一つだけ好きな映画を選べと言われたら、何のためらいもなくエルンスト・ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』(アメリカ、1942年)を選ぶ。何度見ても笑ってしまう。何度見ても心に突き刺さる。語りたいことは山ほどあるが、この連載で取り上げるならば、有名なクライマックスのシーンだろう。
 部隊はナチス・ドイツの侵攻を受けた1939年のポーランド。現地の劇団員たちは最後、ヒトラーがワルシャワの劇場に来ることを利用して脱出をはかる。
 劇団員のグリーンバーグがワルシャワのレジスタンスに扮し、廊下で警備している本物のナチスの隊員たちの前に現れる。その一瞬の隙を突いて、劇団員たちの扮するヒトラーとその取り巻きたちが廊下に現れる。ヒトラーの取り巻きの振りをしている主人公のトゥーラは、グリーンバーグに向かって問う。「どうやってここに入った」。グリーンバーグは答える。「私はここで生まれた」。ナチス隊員たちに一人で立ち向かっているのだからトゥーラはこう尋ねる。「なぜ死ぬ気になったのだ」。グリーンバーグは、劇団員のブロンスキー演じるヒットラーを顎で指して言う。「彼のせいだ」。
 すべて、劇団の演出家が作った台本に基づく演技である。そしてグリーンバーグはかねてから練習していた『ヴェニスの商人』のシャイロックの有名な独白にほんのすこしだけ手を加えて、その場にいる者全員、そして映画を観ている全員の心を掴む台詞を言ってのける。
 「我々に何を? ポーランドに何をする気だ? なぜだ。我々は人間でないと? 我々には手も足も器官も感情もないとでも? 同じものを食べ、同じ武器で傷もつく。病気になり癒やされもする。寒さ暑さだって感じる。刺せば血が流れるし、くすぐれば笑う。毒を飲めば誰もが死ぬ。虐殺されれば復讐する」(1:29:39〜1:30:15)。
 劇団員同士という形でではあれ、ユダヤ教徒シャイロックとヒトラーを対決させるという有名なシーンである。背景では、劇場内で歌われている「ドイツの歌」の一番がずっと鳴り響いており、「ドイツよ、すべてのものの上にあれ」という歌詞が聞き取れる。
 この映画は本当によく出来たコメディーである。説明から分かる通り、状況は深刻であるが、見ていて笑いが絶えない。ところが、その中にいくつか本当に深刻なシーンが挿入されている。私が思いつく限りでは、ワルシャワの街を行進するナチス軍の兵士たちを眺める住民たちのシーンが最初のそれであり(0:22:45〜0:22:54)、最後がこのクライマックスのシーンである。
 このクライマックスのシーンは状況が深刻であるだけでなく、語る者すなわちグリーンバーグが真剣さを感じさせるという意味で突出している。やはり驚くべきは、その真剣さが台本によって作られた演技だということではないだろうか。グリーンバーグは、普段は主役級の役など任されることのない、情けない人物として描かれている。だが、演技は彼を真剣にする。
 人間は心の底から真の感情を放出させた時に真剣になるのだろうか。このシーンが描いているのは全く逆の状況である。人は演技をすればこそ真剣になれる。演技においてこそ、人は周囲に訴えかける真剣さを獲得できる。我々が誰かを真剣だと感じる時、その人は、誰かによって書かれた台本ではないにせよ、それまでの人生で獲得してきた何かに従って演技をしているのではなかろうか。我々は真剣になるために、何らかの台本を手に入れる必要があるのではなかろうか。