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おのれの知の先端で書く

今日発売の週刊読書人が送られたきたので、読んでいた。

俺自身の発言を熱心に読みふけった。

ナルシシズムではありません。

いや、ナルシシズムかもしれないが、言いたいのはこういうことです。

俺はいつも文章を書くにあたって、自分が読んでおもしろいと思えるか思えないかという基準を立てている。

というのも、「書いた俺がおもしろいと思えないものを、いったい誰がおもしろいと思ってくれるのか」、と思うから。

だから、自分でおもしろいと思えるものしか書かないようにしている。

自分で書いたものを自分で読むというのは大変難しいことです。

俺も十分に出来ているとは思えないが、ともかく、昔よりはできるようになった。

そういえば、作者とは自分が書いた文章の最初の読者であるということを言った人がいたような気がする。

しかし、自分が書いた文章の最初の読者になるのは大変。

さて、ドゥルーズがこんなことを言っている。

「自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのでないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。人は、おのれの知の先端でしか書かない、すなわち、私たちの知と私たちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知を互いに交わらせるような極限的な先端でしか書かないのだ」(『差異と反復』、「はじめに」)。

おのれの知の先端で書く。

「おもしろい」と感じるのにはいろいろなパターンがあるわけですが、哲学なんかの場合だと、やっぱり、「わかった!」「なるほど!」というのがあるわけです。

すると、例えば俺は、ドゥルーズについて書いたりして、「そうか!わかった!」と思いながらやっているわけです。

ドゥルーズについて、まぁそれなりには知っている。

でも、書くときにはまさしく発見して、ドゥルーズにそのたびごとに出会っている。

それはまさしく、知らないこと、あるいは適切には知らないことについて書くことであり、無知と知が混じり合う先端で書くことです。

俺が自分で知らないこと、適切には知らないことについて書く=読むことはおもしろい。

というのも、書かれているその場所で何らかの発見がなされているわけだから。

で、それに続いて思うわけです——それは俺にとってだけではないはずだ、と。

というのも、俺がそれを書く=読むことがおもしろいと思えるということは、そのことを他に誰も書いてくれていないということであるわけです。

となると、他の人も条件はほぼ一緒であろう、と。

だから、俺がおもしろいと思えなければダメなのです(もちろん、俺だけがおもしろがっているという場合もあり得ますが!)。

知の先端で書くというのはものすごいよく分かりますね。

自分の無知と知が混じり合ったところで文章が発生する、と。

講義もそうです。

一回ノートを作ってしまって、あとは毎年繰り返せばいいと思う人もいるでしょうが…。

それほどつらいことはない。

飽きる。

やっぱり講義も、おのれの知の先端でないとできません。

これはかっこつけていっているのではないんだ。

本当に二年ぐらい同じテーマでやると、よっぽど進歩しない限り、飽きてしまって本当につらいのです。