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エクリチュールへの違和感、夢

明日からアムステルダムに行ってきます。

このエントリーで書いた
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10554735258.html

3rd International Deleuze Studies Conferenceってのに参加するためです。

まぁ、ドゥルーズ好き好きの人たちのお祭りみたいなものですね。

帰ってきたら報告します。



明日出発だというのに、さっき、発表原稿を書き終えました。

ぎりぎりです。

二〇分の発表ですので、短いものです。

しかし、何か爽快感があります。

単に出来上がったということではないんです。

英語で書いたということに関係しています。

しかし、英語での作文を終えたという達成感でもないんです。





いつも

日本語で文章を書いているとき

何か

自分は半端なものを書いているという強い違和感があります。

何かきちんとできていない書き文字システムというか、

なんとなくできた間に合わせのエクリチュールというか、

そういうものに自分が入り込んでいるという感覚があるのです。

こんなものを、こんなもので書いたって……

そういう強い気持ちがあるのです。

もちろんそんなものはおかしな感覚なのでしょう。

それに、

お前の程度の日本語で偉そうなこと言うな!

と言われるであろうことも分かっています。

しかし何か違和感があるのです。

前に少し書いた訓読みシステムとも関係があるかもしれません。

中国からきちんと全部受け入れたわけでもなし

自分たちで一から作ったわけでもなし

なーなーというか、

なんとなくできあがったエクリチュール。

何かそこに引っかかるのかもしれません。




前はあまりそんなことは考えてませんでしたが、

フランスにいってフランス語で文章を書くようになってから

そういう感覚が出てきました。

フランス語で書くのは本当に楽しいし、うれしいし、爽快感があるし、

ああ、俺は何かモノを書き付けている!

という感覚があるのです。

おかしいどころか、恥ずべき欧米崇拝である可能性もあります。

でも、そういう感覚が確かに俺の中にあるので、

将来それがなくなっていくことも期待しつつ書き留めておきたいと思います。

皆さん批判してください。




フランス語だって、様々な影響の中でできあがり、そしてそれを国家が管理していまのかたちになった。

そのことはよく分かっています。

しかし、

日本語で書くときとは全然感覚が違うのです。

俺は間違っているかもしれないし、間違っているのでしょう。

これは

エクリチュールに

ありもしない〝本来性〟を期待するという

場合によっては相当危険な感覚なのかも知れません。

でも、

これまで日本語で書いてきた作家たち

つまり日本語と格闘してきた作家たちは

日本語のエクリチュールに対する違和感というものをもたなかったのだろうか?





多分、学術書がみんなラテン語で書かれいているとか、

そういう時代に憧れているんだと思います。





本来性というとハイデッガーです。

俺はハイデッガーは大好きだけど

ハイデッガーはドイツ語じゃないと哲学出来ないみたいなことを言ってますね。

あのドイツ語信仰はいただけないというより、

「はぁ? お前なにいってんの?」って感じです。

だって、それ、ヨーロッパのどっか端のほうの言葉だろ?

って差別意識をもってしまう。

本来性って言うならハイデッガーは、ラテン語とかギリシア語で哲学の論文を書き続けるとか、そういうことをすべきだったんじゃないか。

あいつならできる。

俺はできません。





スピノザはラテン語で書いてました。

スピノザのラテン語はそんなに難しくありません。

俺でも辞書を引き引きだいたい文を追うことはできる。

ああいう風にラテン語で書いていた時代に憧れます。

間違っているでしょうか。

間違っているでしょうね。

でも憧れる。

英語とかフランス語なんかで満足すべきじゃない。

ラテン語が支配している時代。

しかも

それに対抗して、

俺は英語で書くぜ!

とか

俺はフランス語で書くぜ!

って抵抗できる時代。

いいですね。

もし俺がそういう時代に生きていたら、

「当然ラテン語で本は書いてくけどさ、英語とかフランス語で書いて出すのも重要でしょ。そうじゃなきゃ、なんで哲学やってんのかわかんねーじゃん。哲学はスコラ哲学者のためにあるんじゃねーんだよ」

って感じだったと思う。





夢ですね。

夢見つつ、アムステルダムに行ってきます。