プレビューモード

エゴイズム、共感、制度

昨日、社会契約論についてすこし書きました。

実はこれについて最近、俺の中でマイブームがあります。

デイヴィッド・ヒュームの社会契約論批判です。

これがめちゃめちゃおもしろい!

とはいえ、俺の場合は、いつものようにドゥルーズ経由です。

前にもドゥルーズがヒュームを使って言っていることは読んでいたはずなのですが、最近になってのめり込んでいます。

簡単に説明しましょう。

社会契約論の前提は何と言っても、人間はエゴイストだということです。

自分だけが大切で誰も助けようとはしない。

ヒュームはここに疑問をもつのですね。

抽象的に考えればそうかもしれんが、具体的に考えてみろ。

だいたい、歴史上、人類はみんな家族やらなんやらの群れで暮らしているではないか。

「自分の取り分を、妻や子供のためにとっておかない夫はいないのである」。

!!

確かにそうです。だいたい人間というものは、周囲にいる人に「共感」して、その人たちを大切にしようとするものなのです。

ところが!

ここからが大事。

「共感」というと、人間が皆で共感し合ってよい社会が出来上がるという予定調和的な社会設計のビジョンを思い描くかもしれません。

そこがヒュームの場合は全然違うんだ。

共感は偏っている、と言うのです。

つまり、妻や子供のために自分の取り分をとっておく夫はいるけれど、その人は別に赤の他人のことはどうとも思わないのです。

そりゃそうだ。

したがって、この「共感」を「統合」するというのが課題となる。

これは複雑な課題です。ひとによって、偏り方は違うからです。どんな共感の偏りも他の共感の偏りと一緒ではない。

対し、社会契約論の前提するエゴイズムだと話は実に単純。

エゴイズムを抑えつけろというだけです。

ここから社会契約論とヒュームの次の違いが出てくる。

社会契約論では「法」が最初に来ます。

「法」は、エゴイズムを抑えつけるもの、すなわち禁止です。

自然状態においては何をやってもいい。

この何をやってもよいという事実のことを自然権と呼びます。

法は自然権を抑えつけたり、放棄させたりする、禁止であり、これが社会の起源に位置づけられる。

対し、ヒュームは全然違うことを考える。

制度が法に先行していると言うのです。

制度とは何か? それは行動のモデルです。

例えば婚姻制度。これがあれば、いちいち、相手を探さずにすむ。

そして、制度があるから法があるというのがヒュームの考えです。

たとえば、婚姻制度がさまざまな習慣の中から次第に成立してきた。

するとそれを運用するうちに、「それはやっちゃまずいだろう」ということが出てくる。

たとえば、浮気とか、重婚とかですね。

するとそれを禁止する法が要請される。

ヒュームはこういう順番で考えるのです。つまり、最初に法というネガティヴなもの(禁止)があるのではなくて、制度というポジティヴなもの(行動のモデル)がある、と。

ネガティヴなもの、すなわち法(禁止)は、ポジティヴなものの後で出てくる、と。

社会契約論というのは、平たく言うと、「みんな自分勝手だからさぁ、最初にガツンと言ってやんないとだめなんだよ」という考えですね。

「ガツンと言ってやる」が、禁止を強制する社会契約であるわけです。

制度論者ヒュームは全く違うことを考える。

みんな一緒に生きていくなかで、習慣を通じて、いろいろ「こうしたらいいよ、ああしたらいいよ」という考えを出し合っていくのだ、と。

だから、そういった助け合いをどんどんまとめ上げていくような社会がよい社会であろう、と。

しかし、繰り返すけど、みんながみんなに共感するわけじゃないので、そこら辺に気をつける必要があるよ、と。

なんておもしろいのでしょう。

俺は政治学科出身でもともとは政治思想に関心があったので、社会契約論にはずっと慣れ親しんできたつもりだったけど、ヒュームの制度論を最近知って、目から鱗でした。

あと、

「最初にガツンと言わないとダメだよ」って考えている奴より、「みんな、こうしたらいいよ、ああしたらいいよ、っていろいろ考えているんだ」って言ってくる奴の方が友達になりたいね。