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スピノザに近づいてみる ——「倫理」と「思考」のための60冊+α(再掲)

夏休み読書リスト

追加です。

こちらは今年の五月に

紀伊国屋書店新宿店の

「じんぶんや」というコーナーでやらせていただいたフェア。

こちらをご覧ください。

このリストは

これまでに上げてきた読書リストの中では

比較的専門性が高いものになっています。

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スピノザに近づいてみる

——「倫理」と「思考」のための60冊+α——

國分功一郎選

スピノザ『エチカ』岩波文庫

 言わずと知れたスピノザの主著。はっきり言って、冒頭から読み始めたために脱落するひとが多い! 確かに「自己原因とは、その本質が存在を含むもの 云々」なんて始まってたら、なかなか読み進められません。ですので、まずは第四部から、特に第四部の序言を熟読するところから始めるのをお勧めします。第 一部の冒頭については、『スピノザの方法』を読めば、なぜあのような話から始まっているのか、実際にどのように議論が進んでいるのかが分かるはずです。ま た、パラパラめくりながら、気に入ったことばを拾い上げていくのもいいでしょう。どんな言葉にも「どこどこの定理を参照」と書いてあるわけですから、遡っ て読んでいけばよいのです。そうするとだんだん自分の気になっている筋がどこにあるのかが分かります。

スピノザ『デカルトの哲学原理』岩波文庫

 私の『スピノザの方法』の売りの一つは何と言っても『デカルトの哲学原理』を詳細に読解したことです。この本はなぜか全然研究されていないんですね。し かし、大哲学者デカルトが書き残した一番有名な定式について、「あのコギトの定式は不十分だから、書き換えるよ」などと平気で口にするスピノザはなんと大 胆なことでしょうか! そしてそんな大胆な試みを研究しないなんて、なんともったいない! そのまま読み進めるだけでもおもしろいと思いますが、是非『ス ピノザの方法』の第二部とあわせてお読みください。スピノザがいったいどれほど大胆なことをしているのかが分かるはずです。

スピノザ『知性改善論』岩波文庫

 私が『スピノザの方法』を書く直接のきっかけになった本です。謎だらけの本です。方法について論じると言っていますが、「方法とは、反省的認識あるいは 観念の観念以外の何ものでもない」(p.34)などといきなり言われても…。何をどうしたらいいのか全然分かりません。ここから私の勉強と思索が始まりま した。

 読んでみると分かるのですが、スピノザは本書の冒頭で「よし絶対善を探求するぞ!」と決断したにも関わらず、二度も断念してしまうのです。三日坊主とい うか、精神力が弱いというか。スピノザはこう言っています。名誉欲や所有欲や性欲によって得られる幸福は取得こそ確実だけれども、その本性は確実ではな い。それはよく分かった。しかし、「以上のことを精神でははなはだ明瞭に知覚しながらも、私はしかし、だからといって所有欲、性欲、名誉欲から全く抜け出 るというわけにはゆかなかった」……(p.16)。スピノザの人間らしさがよくわかる箇所です。とはいえスピノザはここから重要な教訓を得ます。それが何 かはこの本を読んでお確かめください。

スピノザ『神学政治論』岩波文庫

 私がまだ十分に勉強していない本です。ですが、いつか必ず『神学政治論』について文章を書きたいと思っています。この本は近代的な聖書読解の最初の試み です。スピノザはヘブライ語の知識、哲学の知識を活かしながら、聖書をどう読むべきか、どうやって神学には神学の領域を、哲学には哲学の領域を確保すべき かを論じています。スピノザには『ヘブライ語文法提要』という著作があります(未邦訳)。これはヘブライ語について書かれた歴史上初めての文法書だそうで す。私にはまだ歯が立ちません。しかし、こうした書物も将来的にはあわせて読まれる必要があるでしょう(こう考えると、17世紀の哲学者だといっても、や るべきことがたくさんあるのです!)。また、政治論としては一種のイデオロギー批判の最初の試みであると言えるでしょう。民衆はなぜ迷信を信じ、そして権 力に付き従うのか? なぜ民衆は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属するために戦うのか? そのメカニズムを明ら かにしようとした本であり、カール・マルクスの『ブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)に通じるものでもあります。

スピノザ『国家論』岩波文庫

 これはスピノザの遺稿で、執筆は途中で中断されています。かつてアントニオ・ネグリは、『神学政治論』には社会契約論的なパースペクティヴがあるにも関 わらず、『国家論』にはそれがないことに注目し、社会契約論とは異なる地点にスピノザの政治思想を位置づけようとしました。またドゥルーズはこの本が民主 制についての章で中断していることに注目しています。スピノザは民主主義者なのでしょうか? 民主主義についての議論が再び活発になってきている今、もう 一度この書物を読んでみる必要がありそうです。民主主義批判の必要性については、白井聡さんの『「物質」の蜂起をめざして』(作品社)も参照してくださ い。

スピノザ『書簡集』岩波文庫

 ゲーテが愛読したとのことです。とにかく昔の人は書簡(メール)をたいそうな集中力で書いていて、しかもきちんと保存しておいてくれたのですから、本当 に助かります。こうしたものが残っているお陰でどれだけ多くの真理が後世に伝えられたことか。ボクセルとの往復書簡における幽霊の話などは非常におもしろ い(書簡五一から五六)。あと、大学のポストを提案されたスピノザがそれを断る書簡は感動的(書簡四八)。また私にとっては、書簡三七で紹介されているバ ウメーステルのスピノザへの問いは決定的に重要なものでした。

デカルト『方法序説』ちくま学芸文庫

 本当に有名な本です。ここではスピノザの『知性改善論』と並べて読むことをお勧めしておきます。デカルトは真理を探究しようと試みますが、しばしばそう いう探求は日常生活を乱すことになるので(よく分かる…)、とりあえず日常生活もきちんと続けようと考えて、「当座の準則」というのを立てます(第三 部)。真理を探究しつつもこれだけは守っておこうというルールです。たとえばそのふたつ目がおもしろい。森で迷ったならば、あちこちさまよい歩いてはなら ず、たえず同じ方角に行くこと。最初にその方向を選んだ理由は根拠薄弱だったとしても、そのようにすれば、望む地点には出られないにしても、どこかにはた どり着く…。さて、実はスピノザも同じような「若干の生活規則」というものを立てています。スピノザがいかにデカルトから大きな影響を受けていたのかを証 し立てるひとつの証拠でしょう。そこにはたとえば次のようなものがあります。「快楽は、健康を保つのに必要な程度において享受すること」。

デカルト『省察』ちくま学芸文庫

 デカルトは『方法序説』が何と言っても有名ですが、おそらく敢えて主著を一冊挙げよ、と言われればこの『省察』になるのではないでしょうか。この本はそ の作り方が目を引きます。まず「省察」と題される部分を書く。それを様々な人たちに読んでもらい、その人たちから「反論」を集める。更にそれに対して「答 弁」を書く。それらをまとめて一冊にして出来上がったのがこの本です。非常にハイブリッドな作りになっています。デリダの『有限責任会社』(法政大学出版 局)を思い起こさせます。残念ながら「反論」と「答弁」の部分は文庫では読めません。このちくま学芸文庫の版は、山田弘明先生の訳も注も解説もすばらしい ものですので、ぜひとも担当者様、「反論」「答弁」部分も文庫化をご検討ください!

デカルト『哲学原理』ちくま学芸文庫

 デカルトがそれまでの著作をまとめ上げるようにして書いたもので、それまでの文章とは違い、かなり落ち着きが見られます。『スピノザの方法』ではデカル ト哲学における説得の要請に注目していますが、『哲学原理』は実はこの説得の要請が非常に薄まっている書物です。『スピノザの方法』はスピノザ論ですか ら、デカルトについてはすこし単純化してしまったところもあります。ここで取り上げた三つの著作はどれも大きく性格が異なりますので、比較しながら読んで みるとおもしろいと思います。

デカルト『デカルト著作集』白水社

 一〇年間に新装増補版で出版されましたので、だいぶ入手しやすくなりました。それ以前は私も図書館で借りないといけませんでしたから。ありがたいことで す。デカルトは、文庫では読めない重要テキストがいくつもありますので、この著作集には大変お世話になりました。私が『スピノザの方法』の第二部で詳細に 分析している「諸根拠」はここでしか読めません。ヨーロッパでは全集をぺらぺらのペーパーバックで出すことがあるのですが(たとえばフィッシャー版のフロ イト全集は全部で三万円しない)、日本でもああいったことはできないでしょうか? もうすこし安い版が出るとうれしいです。

ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』法政大学出版局

 本当にすごい本です。現在のスピノザ理解を決定づけてしまっている本だと言えるでしょう。しかし当時に、きちんと読まれていない本でもあります。この本 はドゥルーズが、国家博士号論文『差異と反復』(河出文庫)に付した副論文であり、学位制度の要請を踏まえて書かれた、かなり堅めの学術論文です。した がって専門的に読み込むには相当な手続きがいります。スピノザのみならず、スピノザ研究史をある程度理解していないと細かな論点の理解は難しいでしょう。 そうしたことを理解してもらいたかったものですから、『スピノザの方法』ではかなり意図的に、普段引用されないような箇所ばかりを引用しました。分析と総 合の対立を巡る問題などは、アルキエとゲルーというフランス古典哲学研究の泰斗たちの学説を理解していないとなかなか飲み込めません。あのエチエンヌ・バ リバールですら、『スピノザと政治』の中で「大変難解な書物」と評しています(Etienne Balibar, Spinoza et la politique, PUF, 1996〔このバリバールのスピノザ論は未邦訳ですが、水声社から邦訳が出版される予定のようです〕)。

 しかし、こう述べた上ですぐに付け加えねばなりません。これはドゥルーズ自身が言っていることですが、哲学の本には二つの読み方があるのです。専門家と して読むやり方と、非専門家として読むやり方です。そして非専門家としてなんとなく読んでも、この本はおもしろいんですね! そこがドゥルーズのすごいと ころです。今は思わず説教くさいことを書いてしまいましたが、そんなことは気にしないでとにかく読んでみることが大切です。たとえば身体について論じた箇 所。「我々は身体が何をなしうるのかさえも知らない、とスピノザは言う」(p.231)。「我々は意識、精神、心、身体に対する精神の能力について語る。 我々はこれらについておしゃべりはするが、身体に何ができるかということについて何も知らないのである」(p.265)。バリバールはこの本を第三部から 読むことを薦めていますので、私も同じくそれをお薦めします。

ドゥルーズ『スピノザ——実践の哲学』平凡社ライブラリー

 いつかこんな本を書いてみたい。よく学生にドゥルーズは何を読めばよいのですかと聞かれます。またスピノザについても同じことを聞かれます。その時はこ の本を薦めています。スピノザの生涯の描き方も、道徳と倫理の違いについても、用語集も、最終章のいかにもドゥルーズらしいエッセイも、何もかもがすばら しい。そして何より、翻訳のすばらしさをここでは強調しておきたいと思います。鈴木雅大先生の訳は極めて明晰で、しかも日本語としてのすぐれたリズムを備 えています。こうしたすばらしい翻訳でこの本が読める日本語環境には本当に感謝しなければなりません。また解説で鈴木先生は日本語の「れる/られる」とい う助動詞からスピノザ哲学を読み解くという大変興味深い試みをなさっています。この助動詞には、「自発」〔自ずから何かが生まれること〕、「可能」、「受 動」(更には「尊敬」)の複数の意味が折りたたまれています。「自発」なのに、「受動」とはこれいかに? ドゥルーズも、スピノザの『ヘブライ語文法提 要』における(文法用語としての)「様相」の意味に注目していました。文法からスピノザを読む。実に刺激的な研究プログラムです。

ドゥルーズ『無人島1969-1974』河出書房新社

 スピノザを勉強しようと思い立った時に始めたのは、ここに収録されている「スピノザとゲルー氏の一般的方法」を読むこと、そしてそれを自分で翻訳するこ とでした。その頃はまだこのアンソロジーがなかったので、雑誌論文をコピーして読んでいました。とはいえ全然歯が立たなかった。短いものですが、その内容 は極めて高度です。理解と翻訳には五年ぐらいかかりました。私の翻訳は発表する場がないままお蔵入りしています。しかし、この作業の中で実に多くの知見が 得られましたので、それを一つの論文にまとめることができました。よかったらお読みください(國分功一郎「総合的方法の諸問題——ドゥルーズとスピノ ザ」、『思想』、2003年6月号)。この文章はマルシアル・ゲルーという哲学史家のスピノザ論に対するドゥルーズの書評ですが、驚くべき強度のスピノザ 論・ゲルー論になっています。これからスピノザやドゥルーズを研究したいと思っている方々にもこれを熟読することをお勧めします。

 もちろん、ここに収録されている他の論文もすばらしいものばかりです。

ドゥルーズ『批評と臨床』河出文庫

 巻末の「スピノザと三つの『エチカ』」は光学的な視点からスピノザを論じたもので、非常に美しい文章です。美しい文章ではあるのですが、すこし不親切な 文章でもあります(ドゥルーズは晩年が近づくにしたがってどんどん書き物が不親切になっていく傾向がありました)。イメージが次々につなげられていき、気 持ちはいいのですが、あまり勉強にならないというか…。それよりも私はここに収録されているロレンス論をスピノザとの関連で挙げておきたいと思います。ロ レンスの『黙示録論』はこのリストにも挙げておきました。ロレンスの大衆批判はスピノザに直結するものです。つつましい、つつしみ深いと思われている人々 こそが、迷信や無知から権力を渇望し、従属のために闘い、恐るべき仕業を成し遂げる。これはドゥルーズがフーコーの権力論から読み取ったテーゼでもありま したし(ドゥルーズ、『フーコー』、河出文庫、p.56-57)、スピノザの『神学政治論』の序文で示された認識でもありました。

ドゥルーズ/ベケット『消尽したもの』白水社

 「疲労したものは、ただ実現ということを尽くしてしまったのにすぎないが、一方、消尽したものは可能なことのすべてを尽くしてしまう。疲労したものは、 もはや何も実現することができないが、消尽したものは、もはや何も可能にすることができないのだ」(p.7)。「疲労」がやって来るのは、無謀で盲目的な 「希望」が打ち砕かれた後ではないでしょうか。それに対し「消尽」とは、現実に対する透徹した認識から生まれる〝諦念ならぬ諦念〟でしょう。これについて ドゥルーズは、「もはや何一つ可能ではない。つまり徹底的スピノザ主義である」と述べるのです。そうです。スピノザこそは、可能性というカテゴリーを認め ない哲学者でしたから。

 この本はドゥルーズが最晩年に書いたものですが、まだまだ若い頃、ドゥルーズは、幻滅はすばらしいとも書いていました(『プルーストとシーニュ』法政大 学出版局)。なぜでしょうか? 希望ゆえに盲目的になっていた状態を幻滅によって破壊されたために、いままで見えていなかったものが見えるようになるから です。私はこのドゥルーズの冷徹な認識を踏まえた上で、その上で、希望についてどうやって語ることができるだろうかと考えています。それは「スピノザと希 望」というテーマにもつながるはずです。

上野修『スピノザの世界』講談社新書

 上野先生は現在の日本のスピノザ研究を引っ張っておられる方です。いくつもスピノザ論を出されていらっしゃいますが、ここではもっとも手に取りやすいものを。『スピノザの方法』の本文では一番最後の中でこの本に言及しました(p.349)。

清水禮子『破門の哲学』みすず書房

 日本のスピノザ研究において大変重要な本ですが、いまは言及されることも少ないようです。フランスでは最近、清水氏の仕事が紹介され、関心が高まってい ます。僕自身は『スピノザの方法』の中でこの本に疑問も呈していますが、やはり読まれるべき重要な著作です。また、このリストで紹介している安冨歩『経済 学の船出』(NTT出版)のスピノザ論は、一種の「清水禮子論」になっており、彼女が生きた家族、社会、大学が抱える問題を非常に鋭く論じています。 少々、胸が痛くなります。

安冨歩『経済学の船出』NTT出版

 安冨先生はいま私がもっとも注目している経済学者です。「なぜ経済学の本がここに?」と思われるかもしれませんが、この本の最後ではスピノザが論じられ ているのです。コミュニケーションについて考えようとした安冨先生は、communicationという語にex-をつけると「破門」という意味になるこ とに驚き、しかもそこから「破門された哲学者」としてのスピノザを発見します。「スピノザの間違いは、複数の要素の「接続」とそこから生み出される「共感 (同期)」とを混同して、それらを区別せずに「共通のもの」と認識してしまったことにあった」(p.239)。大変、重大な問題提起です。

福岡安都子『国家・教会・自由—スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』東京大学出版会

 日本語で書かれたスピノザ研究の書物の中で私が真に衝撃を受け、震撼したのがこれです。ラテン語やオランダ語はもちろんヘブライ語まで駆使して、旧約聖 書のテクストを巡るスピノザとホッブズの対決を論じています。かつて友人たちと、「ヘブライ語が出来なきゃ、『神学政治論』なんてわかんないよ」と呑気に 言っていたものですが、本当にそういう人が現れた! また、当時の当時のオランダ社会の宗教的寛容の雰囲気も実に見事に描かれています。宗教的寛容と言っ ても、「ここら辺までは許すが、ここからは地下でやれ」みたいないろいろな事情があるんですね。私は書評も書いているので、よかったこちらも参照してくだ さい(國分功一郎「雰囲気の力」(福岡安都子著『国家・協会・自由』書評)、『環』、藤原書店、Vol.33、2008年4月、322~325ページ。)

『創世記』岩波文庫

 スピノザは『神学政治論』で旧約聖書を大々的に論じています。ところで、聖書ってどんなイメージをお持ちでしょうか? 聖書は何よりもまず書物です。書 物ということは読めるということです。いつも学生に言うのですが、キリスト教と聖書を等式で結んではいけません。まずは単なる歴史的な文章の集積としてこ の本を読む必要があります。そして読むとなんとこれのおもしろいことか! さしあたり『創世記』を挙げました。この岩波文庫版は訳者関根正雄氏による詳細 な注が付されており、これは破天荒におもしろい。たとえば「アダム」は固有名詞だと思われているけれど、これはヘブライ語で「人」を意味する一般名詞であ る等々。

マリ・エレーヌ・デルヴァル+ユリーズ・ヴァンセル『聖書ものがたり』ドン・ボスコ社

 子どものころに聞いた昔話は大きくなっても覚えているものです。聖書のいろいろな物語も子どもの記憶にとどめておいてよいのではないでしょうか? この 『聖書ものがたり』は分かりやすい言葉で書かれており、絵もとてもきれいです。昔話は残酷なものが少なくありませんが(「サルカニ合戦」なんて復讐による リンチの話)、聖書もそうです。

おおかわえっせい+わたなべさぶろう『三ねんねたろう』(むかしむかし絵本)ポプラ社

 この絵本は是非とも今回のフェアのリストに掲載したいと思っていたものでした。私は子どもにこの本を買い与えるまで「三ねんねたろう」の話を知らなかっ たのですが、衝撃を受けました。雨が降らないから火を焚いたり、神に祈ったりする農民たち。そこにはまさしく『神学政治論』が描き出す迷信の発生メカニズ ムがあります。ねたろうの寝てばかりの生活とは、このメカニズムに引きよされつつも、どうもそこに入りきれない、彼の逡巡が生み出したものです。そして最 後にねたろうは、いきなり起き上がり、人にバカにされつつも水路を掘ることで、迷信の発生メカニズムがもたらす〝なれ合い〟と〝諦念〟の構造(精神分析的 に言えば、「享楽の共同体」ということになるでしょう)を破壊します。なんと感動的な結末でしょうか。水路を掘る作業を子どもたちが手伝うところも感動し ます。社会を変えるのは、ねたろうとこどもたちです。

萱野稔人『国家とはなにか』以文社

 私が日本の哲学者の中で最も信用している人の一人が萱野さんです。既に彼は多くの著書を出していますが、やはりここでは彼の処女作である本書を挙げてお きたいと思います。萱野さんと私で『スピノザの方法』について対談したこともあるのですが(『週刊読書人』2月4日発売号)、そのことからも分かるよう に、萱野さんはもともとスピノザを研究されていました。この本でもスピノザ主義者としての彼の態度が貫かれています。特に国家の定義がそれです。一見した ところマックス・ウェーバーのそれを発展する形で行われていますが、実際に本文でも引かれている通り、基本にある考え方は『知性改善論』の定義論なので す。つまり、対象の最近原因をもって対象を定義するというやり方です。後半の資本主義論も必読です。

デカルト研究会編『現代デカルト論集』(全三巻)頸草書房

 この全三巻のシリーズは私がデカルトを読む上で決定的な手助けをしてくれました。フランス、英語圏、日本での代表的研究がコンパクトに紹介されており、 大変役にたちます。私が最も注目して読んだのは、ヤーッコ・ヒンティッカ「コギト・エルゴ・スムは推論が行為遂行か」(英米篇所収)と、持田辰郎「デカル トにおける神の観念の精練と、神の実在のア・プリオリな証明」(日本篇所収)です。どちらも『スピノザの方法』の第三章で扱っています。とりわけ後者の持 田氏の論文は、それなしでは『スピノザの方法』の議論が大きく変わってしまうぐらい、私にとって重要なものでした。

ピエール・マシュレ『ヘーゲルかスピノザか』新評論

 スピノザ研究業界では大変有名な本です。マシュレという人はルイ・アルチュセールのもとで学び、マルクスを研究した後に、スピノザ研究を始めました。そ のような経歴の人だからこそ、ヘーゲルとスピノザを並べてみることができたのでしょう。私は『スピノザの方法』の中で、この本を批判的に取り上げました が、いまでも読まれるべき本であることは間違いありません。

ダマシオ『デカルトの誤り』ちくま学芸文庫

ダマシオ『感じる脳 情動と感情の脳科学——よみがえるスピノザ』ダイヤモンド社

 ダマシオの仕事は今後私が真剣に取り組みたいと思っているものです。私の平行論の理解は彼から決定的な影響を受けているからです。私はかつてスピノザの 平行論とは「実際に世界がどうなっているかどうかはともかくとして、心と体が平行していると考えればうまく生きられるよ」という類のものだと、つまり、世 界についての(有益な)一解釈に過ぎないものだと考えていました。ところが、脳神経学者ダマシオによれば、そうではない。我々の存在はまさしく平行論的だ と言うのです。是非お読みください。いまの「脳ブーム」の中でスピノザを読むための第一歩です。

山本貴光+吉川浩満『心脳問題』朝日出版社

 ここ数年、「脳ブーム」が続いていますが、出版されている本は本当に玉石混合です。特に問題なのは全体の見通しを与えてくれる本、実際に何を読めばよい のかを教えてくれる本が少ないということです。山本氏と吉川氏のこの本はまさしくそうした役割を果たしてくれる本です。17世紀に関心がある私に特におも しろかったのは、デカルト以降、実のところ脳についての認識はそう進んでいないという話です。心と体の関係はどうなっているのか、シナプスの発火といって も、松果腺といってもあまり変わらないのではないか、と彼らは言うのです。ブックガイドもすばらしいできです。是非、手にとってください。

ベルクソン『哲学的直観ほか』中公クラシックス

 私はスピノザの言う「直観知」というものが最初まるで分かりませんでした。それが分かってきたのは、ベルクソンの「哲学的直観」を読んでからです。哲学 研究者はある哲学体系に接すると「この要素は誰それから来た、ここは誰それから来た」と要素に分解してしまいがちです。「人間は新しいものが出現しても、 それを古いものに還元しようと試みつくしたあとでなければ、新しいものを理解し始めないものです」(p.81)。しかし、要素を集めるだけではその哲学体 系には決して接近できない。ある哲学に接することができるのは、その哲学の始原にある一つの単純な直観に触れたときです。小説の中の人物について作者がど んなに詳しい説明を試みようとも、その人物に実際に会ったときに経験される分解し得ない感情と等価なものは得られない(「形而上学入門」p.6)。そして 小説を読み進めるとそうした経験が得られるのです。この具体的なものとの出会いこそ、「直観知」に他なりません。

フロイト『日常生活の精神分析』(フロイト全集第七巻)岩波書店

フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫

 フロイトの教えの中で大切なもののひとつは、意識は心の活動のほんの一部に過ぎないということです。心の活動のほとんどは無意識によって占められてい る。無意識はすさまじい速度で情報を処理するマシーンであり、その処理結果の一部を意識は受け取っているに過ぎない。これはそのままスピノザの『エチカ』 の考えにつながります。「意識の主権」を疑った点において、スピノザはフロイト精神分析の起源にある哲学だと言えるでしょう。フロイトにはつまらない文章 は一つもないので、どれを選ぶか迷うのですが、入手しやすい文庫版の『自我論集』と、本当にびっくりしてしまう話で満載の『日常生活の精神分析』を挙げて おきます。岩波書店さん、是非とも『日常生活の精神分析』を文庫化してください!

チャールズ・ダーウィン『ミミズと土』平凡社ライブラリー

「たった一つの代案だけが残る。すなわち、ミミズは体制こそ下等であるけれども、或る程度の知能を持っているということである」(p.94)。ミミズに よって大地はかき回されている。大地はすこしも不動ではなく、ミミズによって流動化されている。それだけではない。穴ふさぎをするミミズは、ダーウィンの 悪戯にも柔軟に対応する。その結果は驚くべきものです。知能、あるいは知性とは、能力として精神の中に存在するものというよりは、むしろ、状況に対応しよ うとする行為そのもののことではないでしょうか? 人間は動物には「本能」しかないと、しかもその「本能」は固定的なプログラムであると考えがちです。し かし、そんな偏見は既にダーウィンによって打ち砕かれている! 本能とはむしろ、満足を得ようとする傾向性として理解するべきでしょう。満足を得ようとす るとき、生物は「知性」を発揮するのです。

新妻昭夫『ダーウィンのミミズの研究(たくさんのふしぎ傑作集)』福音館書店

 ダーウィンのミミズの研究は驚くほどの長い年月をかけて行われています。作者はそれを紹介しながら、実際にその研究の後を発見しようと現地に赴きます。 ダーウィン『ミミズと土』とあわせて読めば理解が深まると思います。子どもにこの絵本を読み聞かせながら、『ミミズと土』の話をしてあげるとおもしろいの ではないでしょうか。

ユクスキュル『生物からみた世界』岩波文庫

日高敏隆『動物と人間の世界認識』ちくま学芸文庫

 私はこの本を題材にして小学生に哲学の授業をしたことがありますが、驚くほどによい反応でした。ここで語られていることは決して難しくない。むしろ子ど もの方が人間中心主義を身につけていないだけ、ここで語られていることを理解しやすいのかもしれません。とはいえ、ユクスキュルの環世界という考え方の持 つ爆発力は相当なものでしょう。どんな生物も独自の仕方で時間と空間を構成している。全生物がその中に投げ込まれているような「世界」なるものは抽象的な ものとしてしか存在しない。ジル・ドゥルーズはユクスキュルの生態学éthologieには、スピノザの倫理éthiqueに通じるところがあると述べて います。道徳moraleが、規範を定めそれに精神と身体を従わせるものであるとすれば、倫理とは、一つの環境の中で、触発し、触発される力の組み合わせ であり、それこそ環世界論が描き出したものに他ならない…。日高氏の本はさらに詳しく「動物と人間の世界認識」について教えてくれる好著です。

ユリウス・グットマン『ユダヤ哲学—聖書時代からフランツ・ローゼンツヴァイクに至る』みすず書房

 私はユダヤ思想には詳しくないのですが、やはりスピノザを読む以上、無視はできません。留学中に書いた論文では甚だ不十分ではありますが、マイモニデス についても論じていました。グットマンの本は「ユダヤ哲学」なるものの通史であり、読み応えがあります。グットマンが「スピノザの体系は正しくは、ユダヤ 哲学の歴史によりもむしろ、ヨーロッパ思想の展開に属している」(p.265)と述べているのは彼がまさしくスピノザを正確に理解していたことの証拠で しょう。

レヴィナス『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫

 この本はそこに掲載されている「スピノザの事例」のために挙げました。スピノザは若い頃にユダヤ教会を破門されています。ラビたちは悔悛を求め、破門の 取り消しを望んでいたらしいのですが、スピノザにはその意志などまるでなく、「弁明書」を書いて彼らに反論しました。つまり、いまもスピノザはユダヤ教会 から破門されているのです。それに対し、イスラエルの初代首相ベン・グリオンはスピノザを復権するべくこの破門の解除を提案しました。それに対し明確に反 対の立場を貫いたのがレヴィナスです。レヴィナス自身の哲学についてはここでは述べられませんが、スピノザという存在が今も一つの問題を形成しているこ と、イスラエル国家の問題と無関係でないことを物語る重要なエピソードです。イスラエル国家とヨーロッパ思想の関係については、早尾貴紀氏の名著『ユダヤ とイスラエルのあいだ——民族/国民のアポリア』(青土社)を参照してください。

ルクレチウス『物の本質について』岩波文庫

D・H・ロレンス『黙示録論』ちくま学芸文庫

 「ルクレティウスと同様に、彼〔スピノザ〕は神々の不確実さに確実な自然の像を対立させる。つまり、自然と対立するものは、文化でも理性の状態でも、市 民状態でもなく、むしろ人間のあらゆる企てをおびやかす迷信だけである」(ドゥルーズ、『スピノザと表現の問題』、法政大学出版局、p.283)。

 「《哲学は何の役にたつのか?》と問う人には次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること、権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要 とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか?」(ドゥルーズ、「ルクレティウスとシ ミュラクル」、『意味の論理学』、河出文庫、下巻、p.178)。

 「『黙示録』は「貧しき者」、「弱き者」たちの報われるべき権利を主張するが、この人々は一般に信じられているように、へりくだった気の毒な人々ではな い。彼らこそは、まさに衆の心しかもたない、まことに恐るべき人々なのだ。〔…〕衆の心は〈権力〉を望んでいる。が、〔…〕ロレンスの話はそれほど単純で はない。〔…〕一方ではそれは権力の破壊を願い、権力は権力者に憎悪を向けている。〔…〕しかしその一方で同時に、この衆の心は、権力のあらゆる微孔にし のびこみ、その胞子をひろげ浸透して、ついには全世界を制することをも望んでいる」(ドゥルーズ、「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」、 『批評と臨床』、河出文庫)。

ホッブズ『リヴァイアサン』岩波文庫

 まさしく近代政治理論の起源にある本です。ホッブズのリアルなセンスは、今でも多くのことを教えてくれます。特に、自然状態が戦争状態になるのは人間が 平等だから、機会が平等だからという論理展開は大変興味深いものです。最初から読み始めると冗長に感じるかもしれませんので、さしあたっては第一部第十四 章の「自然法」の話から読み始めるのがよいでしょう。スピノザは自らの政治理論とホッブズのそれとの違いを説明して、ホッブズとは異なり自分は社会状態に おいても自然権が維持されると考えていると述べました。本当はホッブズの理論構成でも突き詰めていけばそうなるはずなのです。自然権とは誰かから与えられ た許可や資格——通常の「権利」とはそういうもの——ではなく、ある人が何をしてもよいという事実そのもののことです。何をしてもよいという状態から、何 をしてもよいわけではない、〝自制〟する状態への移行こそ、自然状態から社会状態への移行に他なりません。自制しているだけですから、本当は何でもできま す。つまり社会状態においても自然権は維持されているのです。

レオ・シュトラウス『自然権と歴史』昭和堂

レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』みすず書房

 レオ・シュトラウスはいまではアメリカのネオコン(新保守主義)の起源にある思想家として有名になってしまいましたが、政治思想を勉強する上では絶対に 避けて通れない重要な思想史家です。シュトラウスの論の運びというのは、自分の言葉だけで全てを組み立てていく類のもので、本当に読み応えがあります。 『自然権と歴史』などは絶対に文庫化すべきでしょう! 哲学とは自然の発見であり、自然を発見するとは、自然なものとそうでないものとの区別を発見するこ とである。つまり、自分のコミュニティーで当然と思われていることが実は当然ではないと発見することである。私はシュトラウスによるこの哲学の定義にしび れました。しびれて、「自然主義者の運命」という論文まで書いてしまいました。それが掲載されている、『思想』レオ・シュトラウス特集号(2008年10 月号)もあわせてご参照ください。私は翻訳もしています。

ライヒ『ファシズムの大衆心理』せりか書房

 スピノザの『神学政治論』とあわせて読みたい本です。ドゥルーズ=ガタリはこう言っています。「政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起す ることができた次の問題(この問題を再発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあ るかのように、みずから進んで従属するために戦うのか」といった問題に。いかにして、人は、〈パンを切りつめても、もっと多くの税金を〉などと叫ぶことに なるのか。ライヒが言うように、驚くべきことは、或る人々が盗みをするということではない。また或る人々がストライキをするということでもない。そうでは なくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである」(『アン チ・オイディプス』、河出文庫、上巻、p.62)。

プラトン『メノン』岩波文庫

納富信留『ソフィストとは誰か?』人文書院

 『スピノザの方法』では第一章で、懐疑論者=ソフィストという概念人物を登場させています。そこで取り上げたのがメノンです。曰く、「人間は、自分が 知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。まず、知っているものを探求するということはあり得ないだろう。なぜなら、知っている以 上、その人には探求の必要はないわけだから。また、知らないものを探求するということもあり得ないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかというこ とも知らないはずだから」(80E)。ただ私のソフィストの扱いは非常に雑です。プラトン研究の世界的権威である納富先生の著書は哲学そのものの誕生とソ フィストとの関係を問う、まさしく知的興奮の書です。ソフィストに関心をもたれた方は是非ともご参照ください。

『フィヒテ/シェリング』(世界の名著43)中央公論社

 哲学史の中でスピノザを受け継いだ者は誰か? 誰よりも先にフィヒテの名前を挙げなければならないでしょう。フィヒテはカント哲学を批判的に乗り越える べく、スピノザ哲学に注目しました。A=Aの等式によって説明される体系構築の方法は実にスリリングです。日本では専門家以外にはほとんど名を知られてい ませんが、私が『スピノザの方法』の中でも何度も参照しているマルシアル・ゲルーという哲学史家がいます。彼はスピノザの専門家として有名ですが、フィヒ テについての浩瀚な研究書を著しています。ジル・ドゥルーズはスピノザを論じる中で何度もゲルーのフィヒテ論に言及しています。『ドイツ国民に告ぐ』がナ ショナリスティックであるなどという理由でフィヒテが読まれなくなっているのは大変残念なことです(しかも『ドイツ国民に告ぐ』(玉川大学出版部)も実は おもしろい! フィヒテがフランス軍に対して述べていることは胸を打ちますし、あの演説集は教育論としても読めます)。なお、スピノザ=フィヒテ=ドゥ ルーズを結びつけて論じた拙稿がございますので、是非ともご参照ください(國分功一郎「総合的方法の諸問題——ドゥルーズとスピノザ」、『思想』、 2003年6月号)。

ハイデッガー『シェリング講義』新書館(あるいは、ハイデッガー全集第31巻『人間的自由の本質について』創文社)

 『フィヒテ/シェリング』(世界の名著43)に収録された「人間的自由の本質」とあわせてお読みください。フィヒテがカント哲学を乗り越えるべくスピノ ザ哲学を召喚したとすれば、シェリングはスピノザ哲学の乗り超えを目指しました。索引を見ればどれほどスピノザが多く論じられているのかがわかるはずで す。この本はその「人間的自由の本質」についてのハイデッガーの講義の記録です。ハイデッガーがスピノザに言及するのは決して多くないので、貴重なドキュ メントとなっています。ジャック・デリダは「ハイデッガーにおけるスピノザの排除(forclusion)」と言っていました。スピノザがユダヤ系だから なのでしょうか? ではこの『シェリング講義』でのスピノザ扱いはどうか?

シャルル・フーリエ『愛の新世界』作品社

シャルル・フーリエ『四運動の理論』(上・下巻)現代思潮新社(新装版)

ジョナサン・ビーチャー『シャルル・フーリエ伝—幻視者とその世界』作品社

石井洋二郎『科学から空想へ』藤原書店

シモーヌ・ドゥブー『フーリエのユートピア』平凡社

 少々風変わりな思想史の試みとなるかもしれませんが、スピノザに通じる思想家の一人として、私はシャルル・フーリエの名前を挙げたいと思います。彼は情 念そのものを肯定し、その力を倍加していく、そんな社会を構想しました。情念を押さえ込むと別の形で噴出してしまう。だから水道管の流れをよくするように 情念の流れをよくし、社会はその流れの整流装置として機能すべきである。まさしく情動の思想家スピノザに通じる認識でしょう。『愛の新世界』を翻訳された 福島知己さんは、パリに保存されている草稿まであたってこの翻訳を完成させました。現時点での世界最高水準のテキスト校正および翻訳です。石井洋二郎先生 の『科学から空想へ』はともすれば「変人」として片付けられるフーリエを(実際のところ、生きている間に一度も笑わなかったとか、変人なんですけど…)、 非常に明晰に位置づけるとともに、フーリエ作品を「長大な散文詩」として読むという刺激的な観点を出しておられます。同書の最後の言葉を引用——「いまこ そ、フーリエを!」

ミシェル・フーコー『狂気の歴史』新潮社

ミシェル・フーコー『主体の解釈学——ミシェル・フーコー講義集成11』筑摩書房

 フーコーも是非このリストで取り上げたかった哲学者です。フーコーとスピノザが結びつけられることはめったにありません。しかし、彼のデビュー作である 『狂気の歴史』と、権力論から倫理へと転身を遂げた晩年の講義録『主体の解釈学』の双方において、スピノザが、しかも『エチカ』ではなくて『知性改善論』 が大々的に取り上げられているのです。『狂気の歴史』によれば、17世紀においてはまだ理性の地位が確立されておらず、非理性が理性を常に脅かしていた。 そのため哲学者は確固たる決断によって非理性を振り払い、理性を獲得するために邁進しなければならなかった。デカルトの『方法序説』でも、スピノザの『知 性改善論』でも、最初に決断が語られるのはそういうわけだというのです。その後、19世紀になると理性は実証的に肯定されるようになり、理性が非理性を脅 威に感ずることはなくなります。しかし、それは何かを覆い隠すことによって成立した危うい足場ではないだろうかとフーコーは問いかけるのです。晩年の『主 体の解釈学』においては古代ギリシャを参照しつつ、フーコーはこう述べます——真理はある時から、認識の対象になってしまった、と。かつて真理とは、真理 に見合うだけの高みに主体が到達したときに初めて体得できるものでした。ところが「デカルト以降」、真理は認識を重ねていけば手に入るものになってしまっ たと言うのです。そこでスピノザが言及されます。スピノザこそは「デカルト以降」の時代にありながらも、主体の修練と真理の獲得とを相関させて考えていた 哲学者だと言うのです。これは極めて正確な認識であり、また『スピノザの方法』第一章が論じるスピノザの真理観ともぴたりと適合します。フーコーとスピノ ザ、実に重要な研究テーマです。

スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』河出書房新社

 『スピノザの方法』の序章で、「とにかくスピノザを愛さねばならないという不文律ができあがっているようにさえ思える」と書きましたが、これはジジェク の「スピノザを愛せないなんて?」という言葉を念頭に置いて書き記したものです(p.72)。ジジェクという人はとにかく時代の雰囲気に対する嗅覚が鋭い 人です。こういう認識はおさえておくべきでしょう。ジジェクはいつものように意地悪(?)で、『国家論』に現れるスピノザの女性差別発言を引用しています (p.78)。ドゥルーズ=スピノザがあまりにも安易に、あまりにも無思慮に肯定される雰囲気というのは確かにありますので、気をつけるべきです。私自 身、「スピノザを愛せないなんて?」という雰囲気には抗いたい気持ちがあります。

トゥルニエ/ル・クレジオ『フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者』(世界文学全集II-09)河出書房新社

 スピノザをテーマに何か文学作品も…と考えて思いついたのがトゥルニエのこの小説でした。これはロビンソン物語に取材した一種の哲学小説です。無人島に は自分しかいない。他者がいない。するとどうなるか。ドゥルーズはこの小説を論じた論文の中でこんなことを言っています。「私が島において見ないものは、 絶対に知られないものである」(『意味の論理学』、河出文庫、下巻、p.233)。我々が「世界は存在している」と思えるのは、私が見ていない部分は誰か 他の人が見ているという信念があるからである。だから、その「誰か他の人」がいなくなってしまうと、そうした知覚の構造が崩壊してしまう。目の前にあるも のしか存在しないことになり、ひいては可能性というカテゴリーそのものが存在しなくなる。ここからドゥルーズは「これは異様なスピノザ主義である」「倒錯 的な世界とは、必然的なもののカテゴリーが可能的なもののカテゴリーに完全に取って代わった世界である」と述べるのです。これはいわば世界そのものの条件 ではないでしょうか? 我々は、他者の存在を知っているから、先に述べた信念を形成することができているに過ぎないということになるのではないでしょう か? すると無人島はどこにでもあるということになるのです。実は我々は「異様なスピノザ主義」の世界を生きているということになるのです。

サミュエル・ベケット『ジョイス論/プルースト論』白水社

 この本はベケットがジョイスを論じた「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・ジョイス」の中のたった一言、『フィネガンズ・ウェイク』を評した言葉のために リストに挙げました。曰く、「氏〔ジョイス〕の文章はなにかについて書いたものではなく、そのなにかそのものなのである」(p.106)。『スピノザの方 法』で論じた通り、スピノザの『エチカ』の体系もまた、存在と完全に一体化した認識を目指します。つまり、存在について認識を形成していくのではなくて、 認識が存在に追いつき、一緒になってしまうのです。そうしたことが可能であろうかともちろん問うべきです。しかし、スピノザがそのような途方もないことを 企てていたことは知られるべきです。私はジョイスのことは詳しくないのですが、ジョイス文学の観点からスピノザを読むことは可能であろうと思います。

浅田彰『ヘルメスの音楽』ちくま学芸文庫

アーサー・K.Jr. ウィロック他『フェルメールとその時代』河出書房新社

小林頼子『フェルメール——謎めいた生涯と全作品』(Kadokawa Art Selection)角川文庫

 『スピノザの方法』を手にとっていただけた様々な方から、何度も、表紙がすばらしいというお言葉をいただきました。フェルメールの「小路」という絵で す。これは編集をご担当いただいた遠藤敏之さんのアイディアなのですが、もしかしたらスピノザがここを歩いたかもしれないという気持ちで作ったものです。 ある方からは、「きわめて日常的でありながらもどこかこの世のものとも思われない雰囲気のある絵です」との感想をいただきました。フェルメールの絵は日常 的な風景を描いたものばかりですが、確かに不思議な雰囲気があります。浅田彰氏はかつてフェルメールについて「光がある。光があって闇はない」と述べ、こ の光の画家を闇の画家レンブラントと比較しました。光だけがある世界。それは確かにこの世のものとは思われない不思議な世界です。スピノザはこの世界に光 だけを見ていたのか。それとも光と闇を見ていたのか。存在の肯定性と関わる大きな問いであるように思われます。