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ツイッター、大西巨人、『砂の器』

「なぜいまさらブログ?」、「ツイッターやりませんか?」

と言われました。

ブログは始めたばっかりですが、結構気に入ってます。

何が気に入ったかというと、結構長く書いてもいいということです。

だいたい俺はいつも前置きが長い。

で、ブログだとその前置きを書いておける。

前置きまできちんと書いておけるということは、そこで書かれていることの位置づけを明確にできるということ、そして、その骨格を残しておけるということです。

たとえば「あの本はすごい」と言うだけじゃなくて、その本に俺の関心が向いたきっかけや理由を書き残しておける。

つまり、「あの本はすごい」と言明することの必然性を説明できるということです。

昔、修士課程の学生のころ、中野重治研究会というのをやっていたのですが、何を思ったか、生前の中野をよく知る大西巨人さんに実際に会って質問するという大それたことをやりました(手紙を何度も推敲して大変な緊張の中でそれを投函)。

そうしてお会いできた大西さんがこんなことを仰っていました。

文学の世界も政治の世界と同じ。

だけど、一つ違う。

映画『砂の器』(野村芳太郎監督、1974年)で、佐分利信演じる政治家が、加藤剛演じる主人公の音楽家にこんなことを言うシーンがある。

「君、芸術家の世界も政治家の世界と同じだろう。」

「いや、一つ違います。芸術家の世界では作品が残る。」

確かに、政治的な闘いでは負けることもあるかもしれない。けれども、作品は残る。それが大切なことなのだと大西さんは仰っていました。

特に、熾烈な政治的争いを経ながらものすごい持続力で作品を書き続けた大西さんからこの言葉を聞くと、すごい重みがあります。

(なお、大西巨人を読んだことのないひとには、次の二つをお勧めします。それぞれ第一巻のみ挙げておきます)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)/大西 巨人

¥1,100

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新生 1946‐1956 (大西巨人文選 1)/大西 巨人

¥4,725

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ちなみに、大西さんは、『神聖喜劇』の東堂太郎と同じく驚異的記憶力の持ち主で、話をしていても、バンバンあちこちから引用なさる。生きたインターテクスチュアリティーみたいな人です。

さて、その重みのある言葉を、ブログなどという軽薄なものに転用するのは多少気が引けるところもあるのですが、しかし、前置きまできちんと書いた文章を載せておけるというのは、俺にとっては「作品が残る」というのに感覚としては近い。

なんとなくツイッターの前では足踏みしてしまう俺です。

始めたらなんかはまってしまいそうな気がするというのもあるが。

たとえば俺の家にはテレビがない。

いまのテレビ番組がつまらないというのもあるけれど、それより何より、ものすごいテレビ好きだから負けてしまいそうなわけです。

ツイッターはもうちょっと様子を見てからにします…。