プレビューモード

フーコーの描く17世紀の狂気、スピノザの決断(の失敗)、俺の本(の宣伝)

いまゼミで

フーコー『狂気の歴史』

をずっと読んでいます。

やっと第一部が終わるところ。

あの本はほんとに難しいですね。

ゼミ生もよくついてきてくれていると思います。

さて、今回ゼミのために読み直しながら、

いろいろ再発見。

あの中に

デカルトの話があることは知っていたし、

世間でもよく知られています。

デリダが「コギトと狂気の歴史」って論文で、

フーコーのデカルト理解に横やりを入れことがよく知られている。

論争になって、この論争自体もたくさん論じられてきた。

でも、

フーコーはデカルトと並んで、

実は

スピノザの話もしているんですね。

これがおもしろい。

しかも、

スピノザのどの著作かって

『知性改善論』なんですね。

実は、

『主体の解釈学』という講義でも、

フーコーはスピノザの話をしているんですが、

そこでも取り上げられているのは

『知性改善論』です。

『狂気の歴史』の邦訳では

「悟性の改善」とかになってって、

もうちょっと調べて欲しいなぁと。

さて、どういう文脈かと言うと、

17世紀には

まだ狂気が身近なもの、

人間は下手をすると容易に陥ってしまうようなものだった

という話です。

第一部第五章「気違いたち」

です。

(「気違いたち」ってATOKだと変換されない!

 そういう規制はどうよ…。)

デカルトは一つの決意をもって学の基礎を求めんとする。

これは何を意味しているか。

決意をもっていなければ、

理性的な方には進めないということだ、とフーコーは言います。

決断、選択、意志、決意、そういうものによってはじめて

人間は理性の方へと向かえる。

ということは、

決断、選択、意志、決意がなければ、

人間は容易に非理性の側に陥るのだ、と。

ところが19世紀になると、

こうした危うさが忘れられる。

確たる大地として理性が描かれ、

ずいぶんと距離をとって狂気が眺められることになる。

フーコーはこういうことを言うのですが、

そのデカルトの話の後で、

スピノザが出てきます。

デカルトは確かに決断によって理性の側を選んでいるけれど、

その決断はたった一回なされるだけなので、

非理性の身近さとか、

そこに陥る危険とかが

消し去られている。

その点、

『知性改善論』のスピノザは違う

と言うのですね。

というのもですね、

スピノザは

決断に失敗するんです。

「俺は絶対的な善を得るために決断した。

 名誉欲、金銭欲、性欲を乗り越える!」

スピノザはそう言うんですけど、

「やっぱりだめだった」

ってなるんです。

だって、

名誉欲、金銭欲、性欲は簡単にハッピーになれるけど、

絶対的な善とかって、そもそも手に入れられるかどうか分からないから、

そういう不確実なもののために、確実にハッピーなものを捨てるなんて、

俺はあほじゃないか、と。

しかしスピノザは考え直します。

いや違うんだ。

名誉欲、金銭欲、性欲は獲得は確実だが、

その本性は不確実だ。

名誉も金銭も人を不幸にすることはある。

……ってここで性欲についてスピノザが言っていることが笑えるんですが……

性欲にいたっては、

それを満たしたあとに「深い悲しみが訪れる」。

(前に美容院で美容師さんに「俺の研究してる哲学者がこんなことを言っているんですよ」ってこの話をしたら、「たぶん、娼婦を買ったんじゃないですか?」って名コメントをくださいました。時代背景とか考えても、そうかなぁ、と。スピノザが性欲と言う時のイメージってそういうもんだったのかもしれません)。

さて、

確実な善というのは、その取得は不確実かもしれないが、

それが得られた後は確実にハッピーになれるのだ。

だから、

取得は確実だがその本性は不確実な善を

その取得は不確実だがその本性は確実な善のために捨てるのは

間違っていない。

そう自分を納得させて、

スピノザは探求に向かいます。

しかし!

私には

そのことは分かってはいても、

そうした諸々の世間的な欲から

完全に抜け出すことはできなかった…。

ってなるんですね。

スピノザって正直なだぁ、と。

やっぱそれが当然ですね。

フーコーはここで、

決断というギリギリの選択で、

スピノザが非理性から距離をとっているのだと

解説するんです。

『知性改善論』の冒頭は

理性が、

狂気から距離をとるという決断と同時的なものであるということを

明確に示している、と。

繰り返しますが、

19世紀になると

その距離はあらかじめ前提されてしまう。

しかし、

17世紀の哲学者たちは違うのだ、と。

まぁ、

フーコーのこの解説もおもしろいんですけれど、

実はこの話、

続きがあるんですね。

フーコーはそこには関心を持たなかったようです。

スピノザは二回失敗したあと

こういう風に内省するんです。

俺は二回も失敗した。

だが!

そこから何も得なかったのか!

違う!

世間的な欲から完全に抜け出すことはできなかったが、

どうやったらそこから抜け出せるだろうと考えている

その間だけは、

自分はそうした欲から自由になっていた…。

「どうやったらこんな欲から抜け出せるだろう…」

と頭をひねっている間だけは、

そうした欲から自由になっている。

スピノザはそういうことを発見するんです。

これが後の『エチカ』の発想の源になっていくんですね。

我々は情念から逃げられない。

けれどそうした情念の認識は我々を能動的にする。

俺の博論『スピノザの方法』が一月末にみすず書房より出版されます。

いま再校をチェックしている段階です。

この博論の一つの課題は

『知性改善論』が抱えている、

そしてほとんど理解されていない、

或る謎の解明です。

この謎は上の決断の話と絡んできます。

ぜひ、皆さん手にとってください。

詳細はまた追ってお知らせいたします。

いま、

本の出版に関連するイベントも企画中ですので、

こちらも追ってお知らせ。

フーコーとスピノザの紹介でしたが、

最後は宣伝になりました。