プレビューモード

ベルクソン、直観知、存在論でない哲学

昨日は

表象文化論学会で司会のお仕事。

大変有意義な会になりました!

千葉くん、石岡くん、井上くん、長谷川くん、ありがとうございました!

俺の関心に一番近いところで、

千葉くんの発表についての感想を。

千葉くんは、

ベルクソン=スピノザ的なドゥルーズ、

よく知られるこのドゥルーズとは異なる、

ヒューム的なドゥルーズに注目。

俺と千葉君はドゥルーズへの関心において重なるところが多いのだけれど、

唯一違うのがベルクソンの評価で、

千葉くんは意識的に

ベルクソン的ドゥルーズとは別の側面を強調しようとする。

ベルクソンのように

世界を一つの持続、すなわち連続態として捉えるのではなく、

ヒュームのように

バラバラのアトムの集合として世界を捉える

そういう見方をするドゥルーズに注目する。

彼はそういうバラバラというところにつよい関心があるんですね。

でも

いつも千葉くんには言っているんだけど、

ベルクソンの持続というのは

絶えざる差異化の運動体でもあるわけです。

我々自身の存在について考えてみると、

すこしだって前と同じ状態には留まっていない。

常に前の状態からの変化だけがある。

持続というのはそうした差異化の仮定であり、

差異しかない連続態である。

だから、

(1)不連続なものが不連続なものとして連続しているとも言えるし、

(2)連続しているけどそこには不連続しかないとも言える。

もちろん千葉くんはこのどちらもが言えると分かった上で、

意識的に(1)を選択しているのですね。

それは分かります。

俺は(2)を強調するタイプなんだよね。

卒論でライプニッツについて書いた時、

自由の基礎としてベルクソンの持続の話をして、

その時に(2)の解釈で持続について論じたんですが、

その時以来です。

俺にとってはベルクソンは自由について論じた思想家であり、

その自由について考えるためには(2)の持続の解釈が重要なんですね。

だって単に連続していたら自由はありませんから。

あと、

千葉くんは存在論の文脈でベルクソンとスピノザとを繫いでいます。

一つの連続した実体が、そのような実体だけが存在する。

——そういう感じですね。

俺にとってはベルクソンとスピノザの繋がりはそこよりもむしろ直観知の方なんですね。

スピノザは認識を三つに分けて、

第一種認識と呼ばれる想像、第二種認識と呼ばれる理性的認識、第三種認識と呼ばれる直観知を挙げていますが、

この直観知というのは

ベルクソンの言う直観と並べてみるとよく分かるのです。

たとえばベルクソンは「哲学入門」という短い講演で

「概念を以て事象を把握した気になってもそれは無駄である」

と言います。

概念で把握するとは第二種認識に相当する。

それはそれで正確なのですが、

事象そのものを把握するには

それとは別の直観が必要であると言うわけです。

ベルクソンはここから認識を概念的なものに限定したカントを批判しています。

まぁ、

認識論ではスピノザとベルクソンは非常に似ている。

存在論ではどうだろう…。

これは昨日の会の後で千葉くんにも言ったんだけど、

俺は「存在論」という言葉がよく分からないんだよね。

ハイデガーが言ってるそれとかなら、

なんとなく分かるけど、

一般的に存在論と言えるのかどうか。

というか、

存在論と言うのなら、

存在論ではない哲学はあるのか?

俺はよく分からないから踏み込んでいない。

千葉くんはそこに踏み込もうとしています。

同じ本を読んでいるのに、

全然違うこと考えるってのは

本当におもしろいし、

不思議です。