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ボツエッセー

本当に暑い。

みなさん

そう思いませんか。

おかしいです。

日本の夏はこんなに暑かったか。

眠れません。

起きてきました。

なんとなく

ブログ更新。

今度ある雑誌にエッセーを書かせていただいたんですが

そのボツ原稿載せます。

自分で書いて、

「だめだこりゃ」

と思ってボツにしたやつです。

オランダ行く前の忙しい時に書いたから

なんかいろんなことに対して否定的ですね。

否定的なものはダメですね。

肯定的じゃないと。

いや

肯定できるものを紹介しないと。

なんというか、

こういうのを俺は自分でボツにしているんですよ

という紹介です。

かばんはハンカチの上に置きなさい——哲学と教育

國分功一郎

「かばんはハンカチの上に置きなさい」という生命保険の営業マンが書いた本が売れているらしい。かばんは地面に置くこともしばしば。だから、それをお客様のご自宅の床に置いてそこを汚してはダメということである。私はこの本を立ち読みしながら、なんとなく違和感を抱いた。同じ違和感を、「誰々が実践している何々術!」という特集をしばしば組んでいるビジネス雑誌にもよく感じる。

 おそらくこの本を読んでかばんをハンカチの上に置くようになった営業マンは成功しないだろう。著者のトップ営業マンは、かばんをハンカチの上に置くから成功しているのではもちろんない。かばんは地面にも置くから汚れている→ところで、お客様のご自宅の床を汚してはならない→したがって、カバンを直接床に置いてはならない……という気づきができるような人物であるから、トップの営業マンであるのだ。

 ここに現れている問題は意外に根深い。彼は営業マンとしての〝真理〟を何らかの仕方で掴んだ。それは気遣う力でもあろうし、観察力でもあろう。いずれにせよ、「かばんをハンカチの上に置く」というのは、彼が到達した営業マンとしての真理から帰結する結果の一つに過ぎない。したがって、各営業マンは自分なりのやり方でこの真理に到達しない限り、彼のようなトップ営業マンにはなれない。この真理から帰結することを実践するだけではダメなのだ。

 ミシェル・フーコーという哲学者は晩年、真理と主体の関係について古代ギリシアまで遡って研究を行っていた。フーコーはその研究の中で、一七世紀の哲学者デカルト——近代哲学を開始したと言われるこの哲学者以降、真理が単なる認識の対象になってしまったと言っている(『主体の解釈学』、筑摩書房)。どういうことかと言うと、それ以前、とりわけ古代ギリシアにおいては、真理とは、主体がその真理にふさわしいものへと生成あるいは成長してはじめて獲得できるものであったというのである。真理は単に知識として知られるものではなくて、主体が様々な陶冶を経てはじめて体得できるものであったのだ、と。

 デカルトという人はその偉業にも関わらずいつも非難されているので、新たに非難を追加してしまうのは彼に対して大変申し訳ないという気持ちなのだが、しかし、敢えてフーコーの言い方を援用するなら、「かばんはハンカチの上に置きなさい」という箴言をそのまま実践すればよいと思ってかの本を読んだ営業マンは全員デカルト主義者だということになるだろう。彼らは真理を認識の対象だと思っている。その真理を知識として知りさえすればよいと思っている。彼らに欠けているのは、その真理にふさわしい人物になろうという発想である。ハウツー本はこのように深い哲学的問題と関わっているのだ。

 しかし、彼らをそうして馬鹿にするのであれば、まったく事態を理解していないと言うほかない。彼らがそれを求めるのは、それを求めざるを得ない状況があるからだ。つまり、彼らはそうした真理を誰からも教えてもらえていないのである。真理などという大袈裟な言葉を使わず、方法と言ってもよいかもしれない。彼らは方法を求めている。しかし、先行する世代や社会がそれを与えてくれないのである。だから、どうしても彼らはデカルト主義者になってしまう。

 これは営業マンだけの問題ではもちろんない。この国の教育状況は壊滅的である。我々は、教育を受ける者たちに、彼らが自分なりの仕方で真理や方法へと到達する術を教えていくことができなくなっている。ブレヒトは『ガリレイの生涯』で「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」と言ったが、我々はこう言えるだろうか。「方法のない時代は不幸だが、方法を必要とする時代はもっと不幸だ」。

 私は哲学を勉強しているが、哲学はまさしく、真理や方法とのつきあい方の教育の一翼を担うべき学問である。ジル・ドゥルーズが言っているように、哲学は概念を扱う学問であり、概念によって思考することを旨としている。したがって、哲学を学ぶとは概念を扱う訓練を受けることである。私は少し大学の初年次教育にも関わっているが、うまく教えると一年生でも「いまの発表には生権力への視点が欠けているのではないか」などと、うまく概念を使った物言いが出来るようになる。哲学を学ぶ者は、概念を扱う中で真理や方法とのつきあい方を学んでいく。

 とはいえ、哲学はいまその役目を十分に果たしていないような気がしてならない。いまの日本の哲学は「思想」とか「批評」といった言葉に飲み込まれ、これらとの区別がわかりにくくなっている。昔、文芸批評家の柄谷行人が、日本で哲学を担ってきたのは教義の文芸批評家だったと言っていたが、そういった歴史や状況が関係しているのだろう。そして、「思想」や「批評」が哲学をきちんと担っているかというと全くそうなっていない。いま「思想」や「批評」で行われているのは、現代社会に対する印象批評である。「現代社会はこういう雰囲気にある」ということを意匠を変えて言い続けているだけである。そういった印象批評は読者に概念を扱う訓練を行わない。そもそも概念がなく、印象しかない。

 哲学に関わる者はいま、概念の扱い方の訓練を真剣に考えねばならない。フーコーもドゥルーズも晩年、教育について真剣に考えていた。哲学に出来ることは限られている。しかし、それが為されていないのなら為さねばならない。

 ビジネス書に出来ることも限られている。しかし、それが為されていないなら為されるべきであろう。私の考えではそれは、各ビジネスマンが自分なりの仕方でビジネスマンとしての真理あるいは方法へと到達する手助けをすることである。