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マルクスの息子たち、ハーバーマスのサイン、デリダの死

俺が最初に出した本はデリダの『マルクスと息子たち』という本の翻訳でした。

マルクスと息子たち/ジャック・デリダ

¥2,520

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もうずいぶん前のことです。

あれは翻訳だけじゃなくて、かなり長い解説文を書いたので、ほんのちょっとですが〝俺の本〟という気持ちがあります。

これは本当にラッキーなことなのですが、

あの本を出したときにはデリダが生きていました。

そしてパリにあるユダヤ博物館というところで、デリダの講演というか対談があったときに、それをもっていって手渡すことができたのでした。

講演の最後に質疑応答があって、その時に俺は果敢にも手を挙げて質問しました。

確か質問は

「あなたの宗教に対する態度は曖昧ではないか」

で始まりました。

ここで会場爆笑。

で、

「信仰foiと宗教religionをあなたは区別しているが、それは本当に区別できるのか?」

と確か聞いたように思います(ずいぶんと長く話した気がする。あの頃はフランスにいたので、フランス語がするすると出てきた)。

俺が手を挙げて質問しはじめた時、

デリダは俺がどこにいるのか見えなかったみたいで、

「どこ? どこ?」って探していたのを覚えています。

質問している間は、俺の目をじっと見ながら聞いてくれてました。

デリダは確か

宗教というものを最終的に廃棄しなければならないとしても、信仰という構造は絶対になくならない

というような答えをくれたように思います。

で、終わったあとに、『マルクスの息子たち』をもっていきました。

デリダは開口一番

「これはもっていない!」

つまり、彼の本は世界中で翻訳されているわけですが、彼はそれらに全部きちんと目を通している!

更に驚いたのは、

その後、手紙が来たことでした。

しかもそれだけじゃなくて

一番驚いたのは

「あの晩、あなたと会場で議論できたことをとてもうれしく思います」

って書いてあったことです。

俺が質問者だったって覚えてたんだ…。

やっぱりすごいひとはちょっと違いますね。

俺はアントニオ・ネグリの思想というのはあまり買ってません。

俺の専門のスピノザについても、『野生のアノマリー』という本があるけれど、少なくともスピノザの研究書としてはあまり評価できない。

なんというか、どの本を読んでも彼の活動家としての側面が前に出すぎている気がする。

でも、ああ、やっぱり彼は一流だと思ったことがありました。

俺がパリにいたとき、パリ第七大学でネグリの連続講義があって、そこに行ったんですね。

で、また質問しました(あの頃は、何か講演会に行ったら必ず質問してた)。

あなたの言う世界の変化は質的なものなのか、量的なものなのかというようなことを聞きました(こちらは質問内容をよく覚えていない)。

で、なんか知らないけど、ずいぶん長々と質問したんです。

あの人の講義中のしゃべり方というのは、なんというか、眼がどこか遠くを見ていて、ぶっとんでる。

でも、驚いたのは、彼が俺の質問をきちんと聞いてくれたことでした。

俺なんかのダラダラと長い質問でも、イヤな顔ひとつせず、じっと聞いてくれる。

それが彼を単なる活動家とは区別していると思いました。

因みに、

終わったあと、メアドを聞きました。

メール書いてないけど。

俺は結構ミーハーなんで、

パリの書店でハーバーマスを見かけた時(!)

「あのぅ、あの有名なハーバーマスさんですか?」

と聞いてしまいました。

ちょっと緊張していたのか「あの有名な」とつけてしまった。

とまどいつつ

「ええ、そうですよ」

と答えるハーバーマス。

(笑)。

しかも、ずうずうしく、

「すみません、サインもらえますか?」

と頼む俺。

「もちろんいいですよ」。

ハーバーマス、めっちゃいいひとじゃん。

しかもその辺で買った古本の裏表紙にサインしてくれた。

どうもありがとうございました。

でも、俺はハーバーマス先生の言うコミュニケーション的理性はあんまし信じてません。すみません。

ドゥルーズは頼んだらサインをくれたんだろうか。

なんか、イヤな顔をされそうな気がする。

ドゥルーズは出会いrencontreの重要性というのを常に強調していました。

しかし、彼は、

人との出会いというのはくだらない

重要なのはモノとの出会いであると言っています。

それはよく分かる。

どうせ誰かと会ったって

「ああ、どうもどうも、國分と申します」と言って世間話するのが関の山なんです、確かに。

でも、本人を見て話を聞くと理解が深まることも事実でしょう。

俺は、フランスに行くまではデリダが全く読めなかった。

デリダの日本語の翻訳なんてわけわからんって思ってた。

原語がやたらと挿入されてて

〔 〕とか/とか、変な記号ばっかだし

プログラム言語かよ!

って感じでした。

でも、フランスで彼の講義を聴いて、「ああ、全然ちがうじゃんか」って思ったんですね。

日本で変に神秘化されてたデリダとは全然違っていたのです。

しゃべりはめちゃくちゃ明瞭。

あの人の文章はコンマが多いけど、それは単に挿入句が多いだけで、あの挿入句の挿入のリズムが分かれば、すらすら読める。

俺は、講義を聴いて帰ってくると、だいたいデリダのフランス語の物まねをやってましたが、物まねすると、本当にデリダが読めるようになります。

デリダを読みたい学生さんがいたら、彼のしゃべっている音声を手に入れて、あの物まねをするといいですよ。

デリダは2004年10月に亡くなりました。

けれど、2004年10月から始まる学期のシラバスに彼はきちんと講義予定を書いていました。

デリダが死んだ時は、フランスにいたけど、「ああ死んだか」という程度だった。

でも、なんかあのシラバスを読んだときにぐっときました。

デリダはその年の初めにはかなり強力な抗がん剤の治療を受けていたそうですが、まだ授業をやるつもりだったんですね。

なんというか、果たされなかった講義というのは、それだけでデリダ的な感じがします。

彼には、果たされなかった本の構想というものもありました。

デリダの死というのは、単に彼の死ということではなくて、それまで彼が予告していて、やるかやらないかどうなのかわからないような構想群が、そこで閉じられたということを意味していました。

何もやり残さずに——それこそブランショの言い方を借りれば——「雨が降るように」死んでいったドゥルーズとはずいぶんと違う。

それを感じたのは、あのシラバスを読んだときでした。

長々と書きましたが、『マルクスの息子たち』は少し前から品切れ状態になっていたそうです。

今度別の形態で出版されることになりました。

秋に出ます。

詳細はまたお知らせします。

みなさんよかったら買ってください!

明日は18時半から白井聡君とジュンク堂新宿店で対談です。

レーニン。