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モノとの同盟、植物の知性、動物の記憶力、人間のエピソード記憶、そしてモノとの友情

日曜の白井君との対談では

モノとの同盟ということが最後に話題になりました。

俺はまだモノまで考えつくほどラディカルになりきれないのですが

最近は植物について、植物の知性についてよく考えます。

というか、知性について考えると植物の知性というのも考えないといけないのではないかと思っています。

ライプニッツが

物質とは瞬間的な精神である

と言っています。

物質は自らの傾向性

——ぶつかってどちらに向かうとか——

を瞬間的にしか維持できない。

作用反作用を保持することができない。

だから物質とは

記憶を欠いた精神である、と。

これは大変含蓄のある言葉です。

これを

物質は記憶を欠いているという風に捉えるか、

物質は記憶は欠いているが、しかし精神であると考えるか。

ライプニッツの言い方だと後者の可能性が保持されている。

ベルクソンは

植物は驚くべきことに

最短距離で花弁を太陽の方向に向け直すと言います。

ひまわりとか、確かにそうです。

すると、

ひまわりに知性はあると言えないだろうか。

というのもひまわりは

与えられた諸条件の中で判断を下しているわけですから。

結局のところ、人間の知性も

そのような

外的な諸条件に強いられて発動する判断力に過ぎないのではないか。

人間の場合は、その判断力がいわばずっと持続しているというそれだけのことではないだろうか。

最近、娘と動物の番組を見ることが多いのですが(ワイルドライフというやつです)

そこで「へぇー」という話を耳にしました。

何とか砂漠にいるゾウは、

何時間も歩いて複数ある水飲み場を行き来するのだそうです。

それは決して当てずっぽうではない。

大人の象は水飲み場を記憶している。

子供は幼いときから何度もそこに連れられていくので、その水飲み場を記憶するのだそうです。

人間の記憶の有り様を表す概念として、最近、

エピソード記憶という言葉が使われるそうです。

これはまだきちんと勉強していないので不正確な説明になってしまうかもしれないのですが、

人間の記憶は、エピソードを一直線に並べることができる。

あの出来事はあの出来事より前とか後とか、そういう風にして記憶できる。

動物にも、先ほどのゾウの例のように記憶があるわけですが、

しかし、エピソード記憶はない。

人間は、それこそ——瞬間的精神ならぬ——持続する精神として、

このエピソード記憶という機構を発達させてきた。

記憶力という点では動物と人間は変わりないけれども、

エピソード記憶という、進化した記憶力は

確かに人間独自のものである。

おそらくここに精神分析の成果を足すとおもしろいことが言えるだろうと思います。

精神分析が明らかにしたことのひとつは、

神経症の場合、記憶の直線が乱れるということです。

神経症患者は、過去の記憶を過ぎ去ったものとして生きることができず

いままさに体験している出来事としてそれを想起してしまう。

これって、社会生活を営むことが困難になるほど神経症を患っていなくとも

日常的にありますよね。

昔に自分がしてしまったイヤなこととかを思い出して、

「ああ!」

って思いながら頭を振るとか。

ありませんか、そういうこと。

あれも同じですね。

過ぎ去ったことを想起しているだけなのに、現在のこととして体験してしまう。

すると、人間の記憶力も基底的な部分ではエピソード的になっていないと考えることができると思います。

それを普段はエピソード記憶によって押さえ込んでいる。あるいは整理している。

しかし、その機構が壊れたり、あるいはその機構に抑えつけられないような劇的な出来事だと

それが現在の出来事として体験されてしまう。

こうやって考えると、

モノ、植物、動物、人間を

かなり一列に理解できるように思います。

すると、

モノとの同盟は何を意味するだろうか?

それは決して異質な存在者と手を結ぶということではなくて

かつての〝友情〟(?)を取り戻すことであるのかもしれません。

なお、うちにはテレビはありませんが、

プロジェクターがあるので、

ワイルドライフは巨大スクリーンで見ています。