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ルソー——立法者なき一般意志は存在しない

今日は授業でルソーをやった。

先週もルソーをやったんだけど、その時の方が楽しかった。

なぜかというと、先週は『人間不平等起源論』を、今週は『社会契約論』をやったから。

俺は『起源論』の方がおもしろい。

『社会契約論』は、ごまかしばかりが目に付いてしまう。

ルソーの自然状態論はホッブズのそれと比較すると猛烈におもしろい。

ホッブズは自然状態とは万人の万人に対する闘争であると言った。

そのロジックは以下の通り。

人間は平等。「平等の権利を持つ」という意味ではなくて、みんなたいして変わらない、ドングリの背比べという意味で平等。だから、「希望の平等」が生じる。つまり、「あいつがもっているなら、俺ももっていていいはずだ」という希望の予測が生じる。これは反転して、他人への警戒となる。「俺がもっているこれを誰かが狙っているはずだ」。こうして疑心暗鬼が生まれる。疑心暗鬼を乗り越えるためには、先手必勝。何人かで徒党を組んで、やばそうなやつを先にやっつけるしかない。かくして、bellum omnium contra omnes...。

で、それを抜け出すために、統治者との服従契約が結ばれるわけです。

さて、ルソーは、ホッブズとは反対に自然状態は平和だと言った。

そのロジックは以下の通り。

自然状態においては人間を縛り付けるものは何もないのだから、人間は好きなときに寝て、好きなときに食べて、好きなときに好みの人間と関係を持つ(そして次の朝には別れる…)。だから人間は自然状態のおいてはバラバラである。もちろん、あちこちで衝突はあるだろうが、全体としては平和。自然状態では、人の人に対する支配があり得ない。俺の寝床の洞穴を力づくで奪うやつがいるとしよう。そうしたらあきらめて隣の洞穴に行くだけ。自然状態では、ものの所有があり得ない。だから、ものを河に落とすのと、偶然出会った屈強な人間に奪われるのとは等しい。どちらも事故。

ルソーとホッブズにおいて、自然状態がどうしてこのように異なって解釈されるのかというと、ホッブズが自然状態と言っているものを、ルソーは社会状態と見なしているから。つまり、ルソーによると、ホッブズの自然状態は十分に自然でない。なぜって、ホッブズの考えている自然状態では人間が集まって暮らしているではないか、というわけ。それは既に社会が成立している状態。自然状態について考えるにはもっと遡らねばならないとルソーは考えた。

ホッブズだけを読んでると、ホッブズに説得される。

でも、ルソーを読むと、その反論はなるほどと思う。

自然状態論というのは本当におもしろい。どれもすごい説得力があるしね。

だけど社会契約となると、「なんかなぁ」という気持ちになる。

すくなくともルソーにおいて、二つ、ごまかしがあると思われます。これは大問題ですが、さっといきます。

1)ホッブズにおいては、一人の統治者と人民が契約を結ぶ(服従契約)。対し、ルソーでは、人民の個々が、人民によって形成される一個の主権者と契約を結ぶ。自分の自由を諦めて誰か他の人に服従するのではなくて、人民が自らの自由のために自分と契約するわけです。形としては人民という集団が自分と契約しているように見えるけれども、ルソーはそうではないと言います。民法では自分で自分と契約してもそれは無効と言われるが、この場合はこの例にはあたらないのだ、と。なぜなら、単なる個人の集合としての人民が、一個の人格としての主権者と契約するからというわけです。でも、ここにトリックがある。人民は確かに一個の人格としての主権者を形成する。けれども、それはこの契約が締結されることによってではなかったか? 人民各個が、己の権利と存在のすべてを譲渡することによってこの主権者が形成される。つまり、契約の結果としてそれは形成される。でも、契約を結ぶのは、人民と、そして、この契約の結果であるところの主権者であるわけです。論点先取りというか、契約の結果が契約に先立つものとして置かれている。

これはかつてアルチュセールが指摘した問題点ですね。

2)契約が無事成立したとして、この主権者は、一個の人間が意志をもつように、一般意志という意志をもつと言われます。それは共同の利益を目指す、共同体=国家の意志であり、主権の行使とはこの一般意志の行使である。でも、当然ながら、この一般意志が何を指しているのか、いつまでたってもよく分かりません。各個の意志すなわち特殊意志とは異なるし、特殊意志の集合である全体意志とも異なる。うーん。でも、まぁとりあえずそういうものがあるとして、ここでの最大の問題は、「先見の明を欠く大衆」は一般意志が何であるかが分からないとルソーが言っていることです。一般意志は誰かによって教えてもらわなければならない。かくして、かの有名な、〈立法者〉なるものがここに現れます。〈立法者〉は神のような存在で、あらゆる情念を知り尽くしているが、あらゆる情念から自由である。その人が一般意志を言い当てる。

ルソーの言う〈立法者〉は、もちろん、読者に独裁者を想像させます。

でも、問題はそういうことではない。

ましてやルソーが独裁志向であったとかそういうことではない。

ここにあるのは、一般意志は必然的に〈立法者〉を必要とするという構造的な問題です。

どういうことか。

ホッブズにおいては、契約の段階で人民は自由を断念して、一個の決定に従う。

つまり、契約の段階で多が一に結びつけられる。

ところが、ルソーにおいては、人民の自由を尊重するために、契約の段階では人民は一には結びつけられていない。

人民は自分たちと契約するだけです。

多を一に結びつける契機は先送りされる。

先送りされてどこにくるかというと、一般意志のところにくるわけです。

一般意志という契機において多を一に結びつけることが求められる。

でも、これはもちろん困難。

そこで〈立法者〉が出てくるわけです。

〈立法者〉とは、契約の段階ではごまかされていた〈多と一の結びつけ〉を一般意志において遂行する者に他なりません。

つまり、〈立法者〉は構造的に要請されています。一般意志はかならず〈立法者〉を必要とするのです。〈立法者〉なき一般意志はないのです。

これを次の問題に準えることができるでしょう。カントにおける認識の問題です。

形而上学は主体と客体の一致によって認識を定義していたが、しかしカントはこれではうまくいかないと考えて、両者の間に現象を置いた。で、主体は、客体そのもの(もの自体)ではなくて、主体が構成するその現れ、すなわち現象を認識するのだと言った。これによって認識を巡る多くの問題が解決されたように見えた。しかし、ドゥルーズが言うように、実は、問題がずらされたに過ぎない。というのも、この認識が成立するためには、受け取ったものを現象として構成した上で、それを認識するという主体内部での各能力の共同作業がうまくいくことが前提になっている。すなわち、感性・悟性・構想力・理性らが一致して働くということが重要であるわけです。すると、主体と客体の一致という問題は解決したのではなくて、主体内部での各能力の一致・調和という問題にずらされていたことが分かる。カントもまた予定調和を前提してのである…。

カントは、認識における外的な一致(主体と客体の一致)を、内的な一致(主体内部の諸能力の一致)にずらした。

ルソーは、契約における〈多と一の結びつけ〉を避け、一般意志において、立法者をクッションにして、この結びつけを遂行した。

政治とは何でしょうか?

政治とは多と一を結びつけることです。

結局、この結びつけをどこの段階に位置づけるかということが問題なのです。

最近ですと、ハーバーマスは、それを「討論」に置きました。

最近は、インターネットをつかった直接民主制の話がすこし盛り上がっていますが、この場合には、この結び付けをインターネット上の「討論」に位置づけているわけです。