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人称のこと

ひとつ思い出したこと。

先に書いた『新潮』七月号に掲載されているシンポジウムで、東浩紀さんが、『存在論的、郵便的』ではずっと「私たち」という一人称複数で書いているけれど、最後に一度だけ「私」が出てくると言っています。

シンポジウムの時には言わなかったのだけれど、俺も全くの偶然ながら、99年末に提出した修士論文(スピノザ論)で全く同じことをしていた。

人称の問題というのは、批評と哲学に関心をもっている人ならとても重大なことです。

そうした問題意識も東さんと共通していたのだなぁと、あのとき感じ入った次第。

「私たち」で書くということには或る種の暴力性が宿っている。

それこそ、ヘーゲルがどこかで、「私たちは私であり、私は私たちである」と書いています。

でも、他方で、日本の批評で多用される「私」というのも、なんとなくイヤであるわけです。私小説的な〝逃げ〟がある気がする。

ずっと「私たち」で書き、最後に一度だけ「私」を使うというのは、そうした問題意識のなかで俺が採用できたぎりぎりのやり方でした。

さて、日本の或る知識人が本を出すときに、「私たち」という人称をなんとかして使わずに書くこと、それを削ることに大変苦労したという話を聞いたことがあります。

俺は「はぁ?」って思った。

「私たち」という人称がどうしても出てきてしまうということは、それを要請するような文章を書いているということです。だから「私たち」という語を削るだけというのは弥縫策に過ぎない。

それどころか、本当は「私たち」で思考しているのに、それを隠そうとしているわけで、ごまかし以外の何ものでもない。

その話を聞いてから俺はむしろ「我々」を多用するようになった。これは「私たち」よりずっと強い集合性をイメージさせる語。

ドゥルーズも「我々nous」で書いている。

これは居直りではなくて、「我々」と言っても決して問題がないような、強固なロジックを組み立てなければダメだと気づいたからです。

「私たち」が暴力性を発揮するのは、おそらく、ロジック以外の力でロジックの中に人を引き込もうとするときです。