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余白について再び——塾と習い事、そしてザッヘル・マゾッホ

フーコーと余白のことを書いてから

次を次を、と

思ってたんですが、

こんなに間が空いてしまいました。

先週は学生から

「先生、疲れてますね」

と気遣いを受け、

「うーん、そうかなぁ」

と。

いま書いている論文で

とにかく頭がいっぱいになっているというのがあるんですが。

概念と内在平面のことで頭がいっぱいです…。

まぁ、

気を取り直して、

いってみましょう。

久々に。

さて、

前回こんなことを書きました 。

フーコーを読んでいると、

かつては社会に余白があったのに、

それがどんどん塗りつぶされている、

そういうことが概ね書いてあります。

たとえばそれまで見逃されていた犯罪が見逃されぬようになっていく。

それは確かにそうでしょう。

そういうことはいろんな場面に見受けられます。

前回は宮台真司が言っていた、

学校からの余白の消失についても書きました。

踊り場とか屋上とか、

意味を与えられていない場所が

次々に封鎖され、

子どもたちは居場所を失っていった、と。

で、

俺の疑問はこうでした。

確かにそうだ。

社会から余白が消えていっている。

しかし、フーコーが言うように一八世紀の末からずっと消えてってるとしたら…

昔はそんなにたくさん余白があったのかよ?!

って話になる。

世界中の土地の取り合いだってあっという間に終わってすぐに奪い合いになったのに、

余白がそんなにあったなんてなんか嘘っぽいなぁ…。

何かを考えていると

ヒントを与えてくれる出来事に

必ず出会います。

上のような

余白のことを考えていたら、

先週の日曜日に出会いました。

先週の日曜日、

子育て関連のシンポジウム にパネリストとして参加したんですけど、

そこでのキーワードが

子どもの〈居場所〉だったんですね。

大変興味深い会だったので、それはまた別の機会にご紹介できればと思いますが、

子どもたちの居場所というのをどうやって作っていくかという話で

久田邦明先生から基調講演がなされました。

たとえばかつて日本にあった

講のようなもの

(「講」とは、辞書によれば、「貯蓄や金の融通のために組織した相互扶助の団体。無尽講•頼母子講の類」)

そういう組織が地域での子育てのヒントになるということを仰ってました。

子育ては地域社会でやるもので、かつてはそういう意識があった、と。

現在も、地域社会に子どもの居場所を作る興味深い試みが行われていて、

そうした事例をご紹介いただきました。

で、

俺が考えたのは、

直接には久田先生のお話とは関係ありません。

お話の中にこんなことが言われていました。

いまの子どもたちは

塾とか習い事で大変忙しいが、

塾や習い事が、

子どもたちの居場所になっている、と。

これは

実際に塾に行ったり習い事をしていた人なら

誰でも知っていることですね。

俺も中学生の時に行っていた塾は

勉強半分、友達づきあいが半分でした。

「いまの子どもは塾や習い事で忙しい、忙しすぎる」とは、

ものすごく昔から言われていることですね。

多分三〇年ぐらいは言われているんじゃないか。

そういう風に言う〝大人〟は、

当然、

自分たちが子どもだったころは、

塾や習い事で占められない自由な時間があったが、

今の子どもたちにはそうした自由な時間がない、

と言いたいわけです。

これも余白の話ですね。

子どもたちの生活のなかから余白部分が消えていっている、と。

しかし、

かつてあった余白がずっと消え続けているわけじゃないんです。

そうです。

塾や習い事の場で

子どもたちは新しい余白を作っているというか、見出しているわけです。

塾で授業が始まる前の教室とか、

休み時間の廊下とか、

帰りの自転車での会話とか、

余白はたくさんあって、子どもはそういうのを見つけることが得意なんですね。

つまり、

或る余白部分を消すと、

こんどはそこから別の余白部分が生まれるわけです。

もちろん

フーコーが扱っているような事例は巨大ですので、

歴史的にきちんと見ていかないといけませんけれども、

俺は、

塾が子どもの居場所になっているという話を聞きながら、

「そうだよなぁ、余白が消え続けているなんてことないよなぁ」

と思いつき、

そして、

ドゥルーズが好んだ或る作家のことを思い出したのでした。

それはザッヘル・マゾッホです。

マゾヒズムという名前の由来となっている人です。

マゾッホについてはまた今度書きましょう。

今日は彼のアイディアだけを紹介します。

俺が昔訳したドゥルーズの文章に

「ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ」

というのがあります(『みすず』、二〇〇五年四月号)。

「訳者解説」に書いたんですけど、なぜかドゥルーズの論文集『無人島』に再録されませんでした。

ですから、

自分で言うのもなんだけど、

この翻訳は大変貴重なものです。

みすず書房のPR誌に載ったものだから、入手はなかなか難しいかもしれません。

めちゃおもしろくて、ものすごい密度の文章です。

関心ある方は是非。

さて、

マゾッホの考えの一つにユニークな法の捉え方があります。

法は我々にモノを禁止してくる。

普通我々は、その禁止が不快であれば、それを廃棄しようとしてそれに抵抗します。

ところがマゾッホはそうではなくて、

逆に法を利用して、その法が禁止している快楽を獲得する

ということを考えるのです。

ある種の〝負けるが勝ち〟というか、

権力に従うことで権力をすり抜けてしまう、

そういう戦略を考えるのですね。

興味深い一節を拙訳から引用します。

「マゾヒストは父の法を利用して、他ならぬ父の法が禁止している快楽を獲得する。みせかけの、更には過剰なまでの服従によって、法が本来の方向から逸らさ れてしまう例を我々はいくつも知っている。例えば、子どもはタバコを吸ってはいけないという法は人目につかない場所や出入りを禁じられた場所、つまり法が 適用されにくい場所ではすり抜けられてしまう。だがその子どもは、その法がきちんと適用されていたかのように振る舞うことができる。なぜならその法は、タ バコを、他の場所では吸わずに、そうした場所で吸うよう命じているからだ。」

タバコを吸うこと禁じる法律は、

タバコを吸うことを禁じているだけじゃなくて、

人目につかない場所でタバコを吸うことを命じている。

なるほど。

余白についても

マゾッホ的な立ち振る舞いというのが行われてきたのではないでしょうか?

或る余白を禁止されるとは、

別の余白を見出すことを命じられることである。

そして人は、

実際にそれを見出す。

こちらの方がずっと実感がもてます。

だって実際そうじゃないですか?

我々の余白はもうずっと塗りつぶされてきた…

我々は自由をずっと奪われてきた…

こういうフーコーの非マゾッホ的な考え、

(サド的な考えということになるんですが…)

これにはやはり納得できない。

そんなわけないじゃん!

って単純に思うからです。

この二年ぐらいフーコーとずっと付き合ってますが、

こういう疑問がぬぐい去れません。

実際、

フーコーは晩年

それまで築いてきた権力論を放棄します。

それに俺はものすごく共感してます。

やっぱり、

余白がずっと消されてきたって考えは間違っているし、

そう考えていたら人間おかしくなってしまうのです。