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俗情との結託、ヘラクレイトス、ソクラテス、洞窟の比喩について

昨日、ガス室の存在を否定する歴史修正主義を批判したのが、プリモ・レヴィらギリシャ哲学研究者たちだったことは重要だとする田崎英明の指摘(雑誌『現代思想』の特集「甦るギリシャ」、1999年8月号、青土社)を引用した。

「誰もガス室を見ていない」と言う修正主義の主張に対する批判と、目の前に見えるもの以外すべてを否定するソフィストたちの論駁というプラトンの課題には共通性があるというものだ。

俺にとってはここで田崎さんが指摘している問題は実に重要で、自分が哲学をやる上での公理のようなものと関わっていた。

マルクスが『資本論』で「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ」と述べている(第一版序文)。

ここでも同じことが問題になっている。

哲学的にものを考えていく上では、「見えていない」とか、「見たことがない」とか、そういわれてしまうであろうものに直面しなければならない。

簡単に言えば、プラトンはイデア界にイデアが〝実在〟していると考えたわけだが、哲学をやるとき人は、なぜプラトンがそんなことを考えなければならなかったのかについて熟考することを迫られるということだ。

見えているもの、みんなが知っているもの、みんなが触れているもの……そうしたものに寄りかかれば議論はしやすい。

しかし、そうしたものに寄りかかっている限り、どうしても批判できない何かが出てきてしまう。

昔、大西巨人は「俗情との結託」という言葉でこれに似た事態を指摘していたように思う。

プラトンは何より「俗情との結託」を批判した哲学者に他ならない。

そして、プラトンは書き物による哲学を創始したひとである。

ならば哲学とは定義上、「俗情との結託」を批判するものであるのかもしれない。

(このあたりは次のエントリーも参照してください。

http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10555443384.html )

プラトンの師はソクラテスだが、彼にはもう一人師がいると言われている。

それがヘラクレイトスである。

例の、「万物は流転する」の人だ。

しかしそんな言葉より、彼において強烈なのは、その生き方だろう。

ヘラクレイトスについてはこんな逸話が伝えられている。

あるとき、人々が有名哲学者であるヘラクレイトス先生に会いに行った。

すると、小汚いおっさんが釜の前で体を温めている。

失望する人々…。

「えぇー、本当にこんなのがヘラクレイトス先生なの?!」

彼らに語りかけるヘラクレイトス。

「安心して入りなさい。ここにも神々がいるのだから」。

……かっこよすぎる。

絶対に俗情と結託しないヘラクレイトスの精神をこそプラトンは受け継いだのではないかとすらいいたくなる。

プラトンの『国家』に有名な洞窟の比喩というのがある。

人間というのは生まれた時から洞窟に暮らしていて、ものの影をものそのものと勘違いしているような存在である、と。

で、そういう人間は洞窟の外にいって太陽を見ようとしても目がくらんでしまう。

だからすぐに洞窟に(無知の状態に)戻ろうとする。

哲学者というのはうまく目を慣らすことで洞窟の外に出て、その太陽を見ることができた人間である。

だから哲学者は、「おい、お前らの目にしているのは影だぞ! 外に出ると太陽があるから本物が見えるぞ!」と人々に言いたくなる。

で、洞窟へと降りていく。

しかし、明るいところから暗いところにくると、目がくらんで何も見えない。

だから、滑稽な振る舞いをする(まぁKYというところか)。

うまく誰かに声をかけ、洞窟の外に連れ出すことに成功した場合でも

その人は洞窟の外にでると「まぶしい。目がいたい」と言って、洞窟に戻ってしまう。

「あいつは、俺等をどこかに連れて行って、目に痛みを与えるひどい奴だ」ということになる。

で、最悪の場合は恨まれて、殺される、と。

それがソクラテスの場合であるわけです。

この寓話はだいたいここまでがよく語られるところです。

けれどもプラトンがそこで語っている哲学者の像はそれだけではない。

彼は洞窟の外にでて、出っぱなしの哲学者についても語っています。

つまり、洞窟の中にいる人間たちのところに降りていこうとしない哲学者です。

わざわざ洞窟の下に降りていって、みんなに変人扱いされて、結局殺される哲学者のモデルがソクラテスだとすると

洞窟の外にたたずんでいて、洞窟の中に見向きもしない哲学者のモデルはヘラクレイトスではないかといつも思います。

プラトンはこの比喩の結論として、

哲学者はまず洞窟に入れ!

そしてゆっくり目を慣らせ!

はっきりそういっています。

これはつまりソクラテスでもヘラクレイトスでもダメだということでしょう。

しかしソクラテスやヘラクレイトスにならないことは実は大変困難なことです。

俺はそのことがよく分かっていたプラトンに、だから、ものすごく関心があります。

ですが、今日言いたいことはそういうことではない。

いまの時代、俗情との結託が思想の言葉を支配し、プラトンはおろか、ソクラテスもヘラクレイトスもいないという気がするわけです。

俺が、

哲学!

哲学!

哲学!

って言い出して、こんなブログを始めたのも、そんな状況にいらついているからかもしれません。

ここんとこ口調が重苦しいです。

すみません。

でも、

「嗚呼、もっと哲学を」

と思います。

本当に。