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倫理的思考を更新するための50冊+α——選書フェアのリスト(再掲)

ブックリストの続きです。

こちらは「倫理的思考を更新するための50冊+α」と題された俺の選書フェアで、

7月まで東京と大阪など各地で開催していただいたものです。

全何カ所であったか、

俺自身も把握していないのですが

7箇所ぐらいはやっていただけたんじゃなかったかな。

夏休み読書の参考にしてください!

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倫理的思考を更新するための50冊+α

スピノザ、『知性改善論』、岩波文庫

 スピノザの出発点となる著作です。『スピノザの方法』ではこの本の謎めいた性格の解明こそが探究の出発点となりました。冒頭で描かれる決断とその失敗の物語が読む者を引きつけます。しかもスピノザは「絶対的な善を探求するぞ!」と二度も決断しておきながら、二度も失敗しているのです! 三日坊主。しかしこの失敗からスピノザは重大な教訓を引き出します。

スピノザ、『デカルトの哲学原理』、岩波文庫

 現在では哲学の本と言えば、他の哲学者について書かれた本ばかりですが、古典主義時代にはそうしたことはまれでした。これはスピノザが書いた一種の「デカルト哲学入門」なのですが、このような例は他には見あたりません。しかも、スピノザによるデカルト哲学の解説の仕方が尋常ではありません。本当におもしろい本です。詳しいことは『スピノザの方法』第二部をご覧ください。

スピノザ、『エチカ』、岩波文庫

 スピノザの主著。有名です。人気もあります。でも、手に取ってみて違和感を感じる人、読み始めて数ページで脱落してしまうひとも多いようです。定義や定理を重ねる幾何学的様式というこの書かれ方が大きな問題なのでしょう。最初から読もうとしないで、まずは第四部から、その序文を熟読するところから始めてみてください。自然なるものに対する見方が一変するはずです。

ヒューム、『人間知性研究』、法政大学出版局

 ヒュームはあらゆる関係を疑った人です。どんな関係も、因果関係すらも、「単に信じられているに過ぎない」と考えました。その意味で彼は世界を構成している様々な関係をすべて断ち切ってしまったのです。バラバラの世界のなかでヒュームは考えていたのです。ここから二つのことが考えられます。いま我々の社会ではどのような関係が信じられているのか? ここから新たにどんな関係を信じることが可能か?

フンボルト、『双数について』、新書館

 英語などの主要なヨーロッパ語を学んでいると、世界を、単数形と複数形で見ることに慣れてしまいます。まるで世界には〈一〉と〈多〉しか存在しないかのようです。しかし、かつて多くの言語が双数形なるものを持っていました。いまでもアラビア語にはあります。そこでは、〈一〉とも〈多〉とも違うものとして、〈二〉の存在が認められているのです。人類の歴史とは〈二〉を忘れてきた歴史ではないでしょうか。

ダーウィン、『種の起源』、光文社古典新訳文庫

 奴隷を作るアリというものがいるそうです。ダーウィンはそんなアリを軽蔑しつつ(!)、その生態の分析を通じて本能について語っています。曰く、どんな本能もある時に獲得されたものに過ぎない。奴隷を作る本能もいつかどこかで獲得されたのだ。私たちは自然が膨大な時間をかけて成し遂げていく変化のほんの一部しか見ることができないので、自然や本能を固定したものと考えてしまいます。しかし、自然は変化しているのです。

リン・マーギュリス、ドリオン・セーガン、『性(セックス)とはなにか』、せりか書房

 性、セックスというと、生殖と切っても切れないものと考えてしまいませんか? 性欲は生物が自らの種を維持するための機能であるなどと考えてしまいませんか? しかしそれは間違いなのです。「生殖は性とはまったく別のものである。生物の歴史からみれば、生殖が性と絡むようになったことさえ、むしろ最近のことである」。この命題だけでも私たちの〈倫理観〉は多いに揺さぶられます。『性の起源』(青土社)などもあわせてお読みください。

田崎英明、『ジェンダー/セクシュアリティー』、岩波書店

 田崎さんはマーギュリスを援用しながらこう言います。性とは種の存続のためではなくて、個体の維持のために発達してきたメカニズムだ、と。性は破壊されたDNAを復元するために開発されたメカニズムであり、我ら多細胞生物においてはその復元が新しい個体の誕生として行われるに過ぎないのです。つまり、性と生殖を同一視してしまうのは多細胞生物中心主義なのです!

真木悠介、『自我の起源』、岩波現代文庫

 愛やエゴイズムについて考えるためには、そもそも個体とは何かについて考えねばならない——真木悠介はそこまで遡って考えます。クローバーの大草原は一つの地下茎で結ばれていることがある。ならば草原全体を一つの個体として考えることができるだろう…。田崎やマーギュリスと並べ、その相違点について考えるとおもしろいと思います。

ユクスキュル、『動物から見た世界』、岩波文庫

 ああなんてすばらしい本でしょう! あらゆる生物が投げ込まれている「世界」なるものは抽象的に想定できるにすぎない。あらゆる生物はそれ自身のやり方で自分の「環世界」を作り上げている…。この「環世界論」なる学説のいかに強烈なことか。マダニは三つのシグナルからなる世界を生きている。では人間ひとりひとりはどうだろう? 天文学者と生物学者は同じ世界を生きているのでしょうか?

ファーブル、『完訳 ファーブル昆虫記』、集英社

 子どもに人気がある動物・昆虫ものとしてシートンとファーブルがあります。ここではファーブルに注目したいと思います。シートンにはどこか人間中心主義的なところ、動物を人間的な物語の中で捉えようとするところがあります。それに対しファーブルは非人間的です。生態学的視点は人間主義的物語の正反対でなければならないのです。新しい倫理は非人間的でなければなりません。

立花隆、『サル学の現在』、文春文庫

 立花さん自身が述べていることはさほど重要ではありません。彼が無意識に覆い隠そうとしてしまっている学者たちの見解にこそ、この本のすごみがあります。サル学者高畑由起夫氏は、非交尾期に仲がよいオスとメスは交尾期に交尾をしないという現象を発見したのですが(要するに男女の友情!)、そのことについて、「もっと一般性のある現象を非常に特殊なものにつくり上げてしまったのではないか」と反省するのです。サルたちの諸関係の「連続的な濃淡」について語るところは実に刺激的。

河野哲也、『善悪は実在するか——アフォーダンスの倫理学』、講談社選書メチエ

 動物は自らが対象と関わることで生じる出来事を予期しています。ならば、自然と関わりあう生命はすべて、何らかの「あるべき姿」をそこから感じ取っているはず。人間が勝手に定めた規範(たとえば勇猛果敢な男、良妻賢母の女…)などは自然界には存在しない。しかし、このような〈アフォーダンスの知覚〉という視点に立つなら、自然界にある種の規範を見出すことができるのです。河野さんの論述は極めて明晰。

ジル・ドゥルーズ、『哲学の教科書』、河出文庫

 ドゥルーズが若いときに作った哲学の教科書で、多くの著者からの抜粋により成るアンソロジーです。巻頭におかれたドゥルーズの「本能と制度」は興奮必至の必読文献! アフォーダンスにつながる論点もあります。ホッブズ的な近代政治哲学への批判もあります。人間と動物の違いを考えるための重要な視点も提示されています。「本能と呼ばれるもの、制度と呼ばれるもの、これらは本質的には、満足を得るための異なった手段を示している」。ドゥルーズはいつも冒頭の一文がすごい!

メルヴィル、『ビリー・バッド』、圭書房

 生物としての人間と社会的存在としての人間との交錯点を描いた作品と言えるのではないでしょうか。罪を問うとは行為を問うこと。では行為とは何だろう? わたしたちは自由であると前提されなければ罪を問われることはありません(だから心神喪失者は処罰されず、心神耗弱にあるものは処罰を軽減される)。しかし、自由とは何でしょうか? わたしたちは自由なのでしょうか? 死刑について考えさせられます。

マゾッホ、『毛皮を着たビーナス』、河出文庫

ドゥルーズ、『マゾッホとサド』、晶文社

 フランス語の原本ですと両者が一冊になっています。あわせてお読みください。ここにあるのは〈法〉なるものについての考え方の転換です。厳格な法に対してその破棄・転覆を目指すのがサド的な戦略であるとすれば、法のこの上ない厳密な適用が、通常期待されているはずのものとは逆の効果を生み出してしまうことに注目するのがマゾッホ的な戦略です。ドゥルーズは、マゾッホが少数民族問題が渦巻くガリツィアの出身であることにも注目しています。少数民族の進むべき道は独立だけではないのです。

松田道雄、『定本 育児の百科』、上・中・下巻、岩波文庫

 哲学者は育児について語らなさすぎです。しかし育児について考えてきた者たちはいつのまにか哲学者たちを追い越して、育児の哲学を形成していたのです。もちろん時代遅れなところもあるでしょう。しかし松田さんの言葉は心を打ちます。「小食をなおすために生きるな。たんを取るために生きるな。小食であることが、赤ちゃんの日々の楽しさをどれだけ妨げているか。少しくらい咳が出ても、赤ちゃんは元気で遊んでいるではないか」。そしてダンテ。「なんじはなんじの道をすすめ。人びとをしていうにまかせよ」。

デイヴィッド・リースマン、『孤独な群衆』、みすず書房

 育児は人を不安にさせるところがあります。自分の育て方は間違っていないか、いや、そもそもいったい何を基準にすればよいのだろうか…。伝統社会から抜け出した近代人はこのデカルトの懐疑のような状況から容易には抜け出せません。いま日本社会では「孤独な群衆」の子育てが緊迫した問題を提起しています。まずはここから考え始めねばなりません。そして伝統社会への復帰などとは違う、新しい育児の知恵が創造されねばなりません。

エリック・ハヴロック、『プラトン序説』、新書館

 プラトンの『国家』は哲学の古典中の古典です。この本はその名の通りに政治学の本であると思われています。しかしこのメディア論者ハヴロックに言わせれば、むしろそれは教育学の本として読まれるべきだというのです。あのスキャンダラスな詩人追放説についての説明も実にスリリングで説得力に満ちています。古典の再読のために、あるいは子育てのために(!?)、是非とも読みたい本です。

ハーバート・リード、『芸術による教育』、フィルムアート社

 リードは自分の考えはプラトンが既に述べていたことだと言っています。しかし、プラトンは詩人を追放したロゴスによる教育を目指していたのですから、これはすこし変です。リードは奇妙な勘違いの上で、子どもについて、教育について実に魅力的なことを語るのです。冒頭にたくさん掲げられている子どもの絵の解説がおもしろい。

フロム、『自由からの逃走』、東京創元社

 人間は自由など望んでいない。自由になると今度は自由から逃げ出し束縛を求める。なんと簡単な真理でしょう。本書において注目すべきはそのルター論です。フロムは、ルターこそは「権威主義的性格の典型的な人物」であると断じています。ルターの言う「信仰」とは、「自己を放棄することによって愛されることを確信すること」である。それは国家とか「指導者」への絶対的服従を要求する原理と多くの共通点を持つ。

安冨歩、『生きるための経済学』、NHKブックス

 人間は「こうしよう」という形で決断するのではなく、「そうなってしまう」という形で決断する。だが、そうした無意識の選択を反省して自分のあり方を改めていくことこそが「責任をとる」ということではないか。安冨歩は近代経済学の非科学性を告発しつつ、選択や責任といった近代哲学の基礎概念を問い直しつつ、新しい「生きるための経済学」を模索します。名著。経済学部の学生に是非読んでもらいたい。時折挟まれる彼の個人的体験談からも目が離せません。

サーリンズ、『石器時代の経済学』、法政大学出版局

 文明社会に生きる我々は毎日夜遅くまで働きながら、わずかの賃金と多くのストレスを得る。しかし、狩猟採集社会に生きる者は、わずかの労働で多くの収穫を得、たくさん食べて、いらない分は放り捨てて、そしてたくさん眠る。そうなると私たちはこう問わざるを得ません。贅沢とはいったい何なのだろう? 考古学者たちからは多くの批判もありますが、資本主義経済への反省が強烈な高まりを見せる今こそ、本書は再読されねばなりません。

佐原真、『戦争の考古学』(佐原真の仕事4)、岩波書店

 考古学は地面や崖を掘るのが好きな人の学問という偏見を覆してくれるのが佐原真の仕事です。四五〇万年の歴史の中で、人類は人を殺すことはあったけれども、いくさ、戦争が始まったのは約八〇〇〇年前のこと。「四五〇万年の経過のなかで八〇〇〇年という戦いの歴史。それは、翻訳すると四・五メートルのなかの八ミリである」。なぜ私たちは戦争が不可避と思えるような世界に生きているのでしょうか?

ウィリアム・モリス、『ユートピア便り』、岩波文庫

 モリスはここでユートピアを描いています。しかしこれを理想郷だ云々といって片付けてはなりません。モリスがいかなる価値観に基づいて理想を描いているのかが重要です。その価値観は我々の価値観を転倒させるものだからです。品切れなので入手は難しいでしょうが、モリス『民衆の芸術』(岩波文庫)も是非あわせてお読みください。

柳宗理、『エッセイ』、平凡社

 モリスはアーツ・アンド・クラフツ運動を始めました。それを日本で受け継いだのが柳宗悦で、彼は民藝の運動を開始し、民衆の用いる品々の中に芸術を発掘していきます。柳宗理はその精神を受け継ぎつつも工業デザインの分野に進みました。身近な工業製品についての柳のコメントが非常におもしろい。芸術とは何か、贅沢とは何かについて改めて考えさせられます。

ロラン・バルト、『サド・フーリエ・ロヨラ』、みすず書房

 三人の名前が並んでいますが、ここでは特にフーリエに注目しましょう。フーリエは空想的社会主義者の一人として知られていますが、バルトが注目するのはフーリエがやたらと食事の話をしていること。食べることについて語った哲学者というのは非常に少ない。フーリエを読みながら食の贅沢について考えることができるでしょう。食の贅沢というのが私たちにとっても最も身近な贅沢です。

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、『哲学とは何か』、河出書房新社

 ドゥルーズとガタリはこの本の中で年齢について語っています。哲学に携わる者が「哲学とは何か?」と問うことになるのは晩年のことである、と。なるほど。そして、老年はこの上ない自由と純粋な必然性を与えてくれる場合がある、とも。年齢もまた哲学があまり語ってこなかったテーマです。ですが、私たちにとって生きることは年齢を気にすることと表裏一体です。年齢を気にするのではなくて、年齢について考えること!

柄谷行人、『思想はいかに可能か』、インスクリプト

 柄谷行人は異常なまでに年齢にこだわる思想家です。本書で柄谷は、自身が「自然過程」と呼ぶものを通じて、年齢について鋭く論じています。これまであった幾多の革命は、世代の交替という〝自然過程〟が性急な実現をみた、ただそれだけのことだったのではないか…。ウバ捨て山、共同幻想、アイデンティティ、子育て…。柄谷の縦横無尽さは本当にジェットコースターのようです。

ベルクソン、『思想と動くもの』、岩波文庫

 ベルクソンは「持続」という概念を提唱したことで知られています。「アキレスが亀に追いつけない」というパラドクスの解決として提示されたこの概念は、現実を、分割不可能な運動ないし時間として考えることを求めます。とはいえ、これは単なる認識の問題にとどまるものではないのです。ベルクソンによれば、持続の概念のもとに事物を見ることで、メッキに覆われた私たちの知覚は息を吹き返し、私たちは喜びをすら感じ取ることができるのです。つまり、「持続」は生き方の問題なのです!

田川健三、『イエスという男』、作品社

 有名な「良きサマリア人の譬え」を解説して田川健三は言います。「誰が我々の隣人であるのか」と問う律法学者の問いに、イエスは「誰がこの被害者に対して隣人になったか」という問いを対置したのだ。隣人というものは、自分の方からなるものなのだ。イエスはこうして隣人の概念を転倒させたのだ。〝イエスという男〟をキリスト教から切断することで見出される、一人の反抗者の物語。イエスのイメージが完全に覆されるはずです。

フーコー、『自己と他者の統治』、筑摩書房

 フーコーは晩年、それまで構築してきた権力論を放棄し、倫理学を構想します。古代ギリシャにまで遡り、主体の陶冶がかつてどのように組織化されていたのかを明らかにしようとするのです。この本は講義録ですが、その中でフーコーはパレーシアという概念に注目しています。「率直に物事を言う」というような意味なのですが、これが主体の陶冶と関係しているのです。フーコーの晩年の倫理学はスピノザの倫理学に非常に近い性格をもっています。

大西巨人、『大西巨人 文選』、みすず書房

 大西巨人は『神聖喜劇』で知られる、現代の日本を代表する小説家です。大西は同書の主人公東堂太郎にしばしばなぞらえられ、意志の人、決断の人と思われています。しかしそれは間違いです。彼のエッセイの数々を読めば、彼がいかに無意識の人、笑いの人、ユーモアの人であるかが分かるでしょう。「おーみとしろー」と叫ぶ中野重治を描いたエッセイは爆笑せずにはいられません。彼の倫理はこのユーモアと切り離せないものであるはずです。

フロイト、『あるヒステリー分析の断片』、ちくま学芸文庫

 フロイトはどの本を挙げればよいのか常に迷います。いずれにせよ、〈意識の主権〉を疑い、無意識の理論を打ち立てた精神分析学は、倫理的思考を更新するためには必要不可欠です。もしも決断が〈私〉の中の他者によってなされているとしたら、〈私〉はそれに対してどう責任をとるべきでしょうか? 本書は症例報告ですが、ここに紹介されている事例は人間関係について多くのことを考えさせます。

ラカン、『精神分析の倫理』、岩波書店

 ラカンは難解です。ですが、「精神分析の倫理」はそれほど難解ではない。欲望を諦めないこと、それが精神分析の説く倫理です。「こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらでも、でも多分私の方が、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう」——こんな風に納得する時、欲望の断念という裏切りが行われているのだとラカンは言います。こういうこと、会社とか学校とかでよくありませんか?

アレンカ・ジュパンチッチ、『リアルの倫理——カントとラカン』、河出書房新社

 ジュパンチッチは序章でこう言います。「命は大切である」という貧弱な原理しか提示できない現代社会においては、人は何かに駆り立てられている人間を羨ましく思う、と。大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち、人は彼らを恐ろしいと言うけれども、心の中では羨ましいと思っている…。かくのごとき問題意識からカントとラカンを読む彼女の指摘はどれも心に迫ります。カント「嘘論文」の解釈は特に秀逸。

田口智子、『カフカの絵本』、小学館

 大人は意味を求めてしまいます。昔話はどれもテキストになる時に書き改められてしまいますが、その時に現れるのはいつも善悪という意味なのです。たとえば『こぶとりじいさん』。両方の頬にコブをつけられてしまうじいさまは、意地悪なじいさまだったことにされてしまう。カフカは意味ではなくて、寓話を描きます。意味を押しつけない物語をこそ子どもは読むべきではないでしょうか。カフカが絵本になるのは実にまっとうなことです。

ローレンス デイヴィッド、デルフィーン デュラーンド、『ぼく、ムシになっちゃった』、小峰書店

 カフカの『変身』に取材した物語です。やや説教くさい話になってしまっているきらいはあります、うまくあの話を子ども向けに翻案しています。それにしても、『変身』はそのまま絵本にすべきではないでしょうか。

ルネ・シェレール、『歓待のユートピア——歓待神礼讃』、現代企画室

 歓待とは何か? 他者を受け入れもてなすこと、そして他者と混じり合うことです。歓待においては自我も他者もなくなり、そこに新しい出来事が訪れます。シェレールは古代から現代に至るまで、歓待を巡る物語や理論を遍歴しながら、繊細に、そして大胆に、歓待の姿を描きます。「あなたのことを認めてあげるから、私には触らないで」と横柄に述べる多文化主義=寛容(tolérance)と断固区別しながら、歓待(hospitalité)の理念について考える必要があるでしょう。

カント、『永遠平和のために』(池内紀訳)、綜合社

 この平和論の何がすごいと言えば、歓待(Hospitalität)を認めること、訪問権を確立することに結論をおいていることです。世界市民法は訪問権を確立することだけに制限されねばならないとカントは言います。つまり、戦争するなとか、他国を支配するなとか、そんな条項はいらないと言っているのです! 訪問しあっていれば次第に人類は進歩する。なんと簡潔にして大胆な答えでしょう。なんと実践的な答えでしょう。

坂部恵、『理性の不安』、勁草書房

 カント哲学を斜めから読みながら、しかしその核心に迫る名著。第一章のカント教育論の話がめっぽうおもしろい。青年は訓練と経験が足りないから哲学は分からないとか、学生の欠点は世界について知らないくせにあれこれ理屈をこねていることだとか。カントはこういう困難を見据えた上で、哲学の教育をプログラムを考えます。哲学の「学校概念」と「世間概念」などという話を聞くと、実学としての哲学と口にしたくなります。

デリダ、『歓待について』、産業図書

 「あなたが私を受け入れてくれたから、私もあなたを受け入れよう」——こういう条件付きの歓待は歓待ではないのだとデリダは言います。絶対的な歓待こそが歓待の名に値する。デリダはこの歓待の理論を当時のフランスの移民制限政策に絡めて考えていました。デリダの難解な思想が現実に直結していく様が非常に分かりやすく読みとれます。晩年のデリダの思想を知る上でも入門的役割を果たしてくれるでしょう。

クロソウスキー、『ロベルトは今夜』、河出文庫

 客人に妻を差し出すことを記した「歓待の掟」なる奇妙な宣言文が掲げられた客間。しかしこの歓待の思想は、情念を抑えつけているが故に人格に歪みを抱えたロベルトにとっては実践的な役割を果たすのです。内容はスキャンダラスですが、そこから読みとれる思想はむしろ自由自在に応用が利きます。

宮本常一、『忘れられた日本人』、岩波文庫

 伝統的社会については、「昔はよかった」と言って無条件に肯定するか、逆に無条件に否定するかの極端な態度ばかりです。しかし私たちはそれについてどれだけのことを知っているでしょうか。宮本自身も驚いた、寄り合いのメカニズムの合理性。全員が納得するまで、ただし対立が激化しないように、ただひたすら話し合う姿は民主主義について考える上でも多くの示唆を与えてくれます。宮本が村社会の助け合いと同時におとしあいにも目を向けていることに注意しましょう。

バハオーフェン、『母権制序説』、ちくま学芸文庫

 我々は男性中心の社会を生きています。歴史上も常に支配的地位には男性がいました。しかしバハオーフェンは古代に、母権を中心とした社会が存在したと述べるのです。しかも神話を通じてその世界にせまろうとするのです。母権制は物質に属し、父権制は精神に属すと説く本書には、独特の不思議な雰囲気があります。一種の理論的小説として読んでもよいかもしれません。

谷川俊太郎、長新太、『新装版 えをかく』(講談社の創作絵本ベストセレクション)、講談社

 もともとあった谷川俊太郎の詩に、長新太が絵をつけたものだそうです。肉の腐った男の死体に並んで、ライダーのお面が現れる。それが世界というものではないでしょうか? そんな世界を生きながら、周囲の空気にあわせて戦争批判してみるのでもなく、悲しんでいないとバツが悪いから悲しんだフリをするのでもなく、ただ「えをかく」ことが大切ではないでしょうか。

内田樹、『ためらいの倫理学』、角川文庫

 内田樹は違和感を絶対にごまかさない人です。彼にものを書かせているのは、彼があるときに感じ、ずっと心に秘めていた違和感だけなのです。違和感をごまかさないということがどれだけ困難でありどれだけ貴重か。

ジル・ドゥルーズ、『感覚の論理——画家フランシス・ベーコン論』、法政大学出版局

 おそらくこれはドゥルーズが書いた唯一の(狭義の)倫理学の書です。ドゥルーズは本書ではじめて「責任」なるものについて論じました。わたしたちは何かに対して責任があるのではない。何かを前にして責任あるものになるのだ…。絵画論としてはもちろん抜群のおもしろさですけれども、倫理の視点から読んでみてもよいと思います。

ジル・ドゥルーズ、『スピノザ——実践の哲学』、平凡社ライブラリー

 最後は何があってもこれです。この本は本当にすばらしい。スピノザの生涯の描き方も、道徳から区別された倫理の描き方も、スピノザ用語集も、最後のエッセイも何もかもがすばらしい。そして鈴木雅大の翻訳がまたすばらしい。ドゥルーズの文章のリズムをこんなに見事に表現している翻訳はまずない。絶対にお勧めです。私もこんな本が書いてみたい。