プレビューモード

再び制度について——有用性、あとちょっと『カイジ』の話

制度についての話の続きです。

制度も本能も満足を得るための手段である。

これはいいですね。

言い換えればどちらも有用性に関わっている。

とはいえ両者は異なります。当然です。

本能とは異なり、制度が与える満足は常に間接的である、とドゥルーズは言います。

たとえば、婚姻制度であれば、それは性欲を満たす間接的な手段であると言えるでしょう。

対し、交尾する本能は性欲を直接に満たすわけです。

問題は制度のこの間接性です。

制度のもつ有用性が間接的であるということは、制度によって獲得される満足によっては制度は説明されないということです。

つまり、婚姻制度が性欲を満足させるとしても、性欲が婚姻を制度として要請するとは言えないのです。

当たり前です。

性欲を満たすための制度にはいろいろな形態が考えられるからです。

性欲を恒常的に満たすためなら、乱交制度でもいいし、三、四人で集まって暮らすでもいい。

したがって、制度のもつ有用性は、いったい誰にとって有用であるのかについて考えることを我々に迫ります。

性欲があるから、子孫繁栄のため、男女はそもそも惹かれあうから……これまで、ありとあらゆるプレテクストを動員して、人々は婚姻制度を正当化しようとしてきました。

別に婚姻制度がいいとかわるいとかいったことはまた別の話です。

まず重要なのは、その制度が誰にとって有用であるのか、それを考えることです。

こうして見ると、この制度論はとたんに政治的な批判性を帯びてきます。

さて、前回、「もっと多くの制度を!」と書きました。

どんな制度も誰かにとって有用であるわけです。

ならば、まず言えるのは、制度は多い方がいいだろうということです。

つまり、「こうしたらいいよ」「ああしたらいいよ」というモデルが多いということ。

しかし、こうやってモデルが多くなっていくのは、もしかしたらポストモダン状況ということなのかもしれず、そうなると、端的に多ければいいやとも言えないような気もします。

このあたりは俺も悩んでます。

それはともあれ、俺は哲学をやっているわけだから、まずは、社会契約論的な人間観、エゴイストとしての人間という像を批判的に検討してみるところから考えようと思います。

最近、久しぶりにマンガにはまって、福本伸行の『カイジ』を全巻そろえました。

あのマンガを読むと、エゴイズムについてよく考えます。

で、ものすごいおもしろいんだけど、人物描写にリアリティーがない気がするわけです。

人物描写といっても、主に悪役ですが。

人間はあんなにエゴイストで、共感から無関係に生きられるものだろうか、と。

あれはやはりホッブズ的な抽象的人間観ではないか?

カントが言ったように、悪いことする奴もやっぱり心の中では罪悪感をもっているという方がリアルな気がします。

確信犯は別ですよ。

でも、『カイジ』の悪役たちは、これは悪徳な行為であると分かっていてするわけですから。

とはいえ、この話を、福本伸行論を書いた白井聡君にしたら、「國分さんは、やはり俺の福本論を読んでませんねぇ」と言われました。

すみません。まだ読んでません。

こんどジュンク堂でも対談するから、読んでみようかと。

「福本伸行は政治思想家である」

という彼の論文の冒頭の一行だけは立ち読みしました。

全く同感。

制限ジャンケンの話などは、ルールの生成を描いているという意味で、自然状態論とも関係しています。

とはいえ、先の冒頭の一行、但し俺ならこう付け加える。

「福本伸行は政治思想家、しかもホッブズ主義者である」。

あと、『アカギ』のアニメはおもしろかったですね。

エンディングが絵も歌もよかった。