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制度と本能

前回書いた制度論は、ドゥルーズの「本能と制度」(『無人島』所収)という論文も参考になります。

無人島 1953-1968/ジル・ドゥルーズ

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そこでドゥルーズが言うのは、本能も制度も満足を得るための手段だということなんですね。

ここからいろいろな考えを紡ぎ出すことができます。

本能を内的な衝動としてではなくて、手段として考えると、本能の変化が考えられることになります。

ダーウィンをきちんと読んでいた人なら、この論点には驚かないでしょう

『種の起源』の第七章では、本能が「種の幸福」を満たす機能をもち、それは軽微な変化の漸次的蓄積に基づいていると言われていました。

『種の起源』は最近新訳も出ました。

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)/チャールズ ダーウィン

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是非皆さん読んでください。

生物の見方が変わります(というか、100年以上前にこの本によって変わったはずだったのだが)。

自然は極めてミクロな変化と、極めてマクロな変化をもっている。

我々はいわば、ミクロな変化には目がとまらず、マクロな変化までは目が届かず、その間だけをみている。

だから、自然が安定しているように思えるわけです。

しかし、たとえば渡り鳥が遠くまで飛んでいく習性ですら、長い時間をかけて獲得された習性である。

ここには反復による創造というトピックが出てくるのですが、これは次にしましょう。

さて、制度の方はと言うと、ドゥルーズはこれについて、人間の本能が壊れつつあるあるがために出てきたものだと言います。

本能によって満足を獲得する代わりに、制度によってそれを行うようになっているのだ、と。

前回、法と制度を比較しました。

サン・ジュストがこんなことを言っているそうです。

民主的な国家とは、出来る限り少ない法と、出来る限り多い制度によって出来ている国家である。

制度が多ければ多いほど、人間は自由になる。

ここには極めて重要な論点が現れています。

制度とは行動のモデルであると言いました。

制度が多いということは、モデルが多いということです。

モデルが多いと人間は自由になる。

近代は、モデルを自由の対立物と捉えてこれを破壊してきたのではないでしょうか。

行動のモデルは人間を拘束するものである、と。

だから、習俗とともに制度を破壊し、人々をまっさらな「自由な」空間に投げ捨て、その上で、「これだけはやるなよ」といって法を課してきた。

最近では、ここに更に新自由主義が加わり、「ほら、見ててやるから、お前ら競争しろ」と。

壊滅的な状況です。

こうした状況を作ったことには、哲学に携わる者たちにも責任がある。

哲学者こそ、制度は自由に反しないということをもっと声高らかに言うべきだった。

だって、ドゥルーズの「本能と制度」は1953年に出版されているんですよ。

もうその時点でドゥルーズは社会の現状の問題点を分かっていたと言えるでしょう。

モデルから自由でありたいという欲望は、俺が小さいころ(まぁ八〇年代か)は、よく「決められたレールの上を走りたくない」という言葉で表現されていた。

みんなそういっていた。社会もそれに乗っかった。哲学、というか思想もそれに乗っかった。

で、あらゆる制度をぶちこわしたというわけでしょう。

でも、それで人間は自由になったのだろうか?

いまこそ制度が大切です。

そして制度については数が大切なのです。

もっとたくさんの制度を…。