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子育て関連記事三つ、最後に抽象性の問題とネズミ講

忘れないうちに

最近気になった新聞記事三つ。




ひとつ目

東京新聞2010年11月6日朝刊社説

「チーム村木」

待機児童対策を迅速に進めるため、

「待機児童ゼロ特命チーム」が発足。

事務局長に

厚労省の文書偽造事件で無罪が確定、復職した村木厚子氏が就いた。



なんと!

菅からは

「一挙に問題を解決して欲しい」

と言われているそうな。

前に記事に書いたことがあるけど 、

俺はなんとなくこの村木さんという人が気になっている。


頑張ってください。


チームを作って一気にやるというのは悪くないかもしれない。

ただ、いま厚労省は保育園と親の直接契約、要保育度認定などの

導入されたら保育の現場は大混乱の制度も検討中。

そのあたりはどうなるか。




ふたつ目

東京新聞2010年11月2日朝刊

「機能してない児童虐待予防」

安食美智子記者の署名意見記事。



虐待の早期発見などを目的に、

保健師などが生後四ヶ月までの乳児家庭を訪問する

「こんにちは赤ちゃん事業(乳児家庭全戸訪問事業」)

というのがあるそうです。

厚労省が2007年に創設し、

自治体には実施の努力義務が課せられたとのこと。



しかし、

安食さんが電話取材したら

東京都内の或る自治体の担当者

「そんな事業やってませんが…」

との言葉。

耳を疑った、と。



とはいえ、

俺も知らんかった。

どれだけ知られているのか。



この制度はほんと、

ぎりぎりでやばいケースをなんとか発見して最悪の事態を回避する

というものに過ぎない気はしますが、

もちろんやらないよりはよい。



虐待についてはまず俺はこう考えています。

母親が一人で責任をもって子育てをしなければならない

と社会が考えている限り

虐待はなくならない。

たったひとりで

女性が孤立して一日中子どもと向き合っていたら

おかしくなるに決まってる。

だって休みなしですよ。

そして、

人類史上

親が一人で子育てしなければならない

なんてことはこれまでなかった。

これは核家族という新しい現象と

母性神話がくっついて出来た偏見であって、

それまでは子育てを手伝ってくれる人が

周りにたくさんいたわけです。

祖父祖母、近所の人。

子どもというのは

コミュニティーで育てていたわけです。

それがいきなり女性一人に

「お前やれ」

ってことになったら、

よっぽどの人じゃなければ

大変なことになりますよ。




この前、子育てシンポジウムで

フィリップアリエス『〈子ども〉の誕生』

の話をしました。

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一七世紀ぐらいまで

フランスでは子どもというのは子どもとして認識されてなくて、

大人の出来損ないと思われていた。

で、

その後子どもの発見が行われて、

子どもが子どもとして扱われるようになっていくのですが、

その際に重要なのは、

子どもの発見と同時に、

子どもが親の責任で育てられるべき存在になっていくところです。

それまでは親じゃなくて、

コミュニティーが子どもを育てるという考えだったらしいんです。



このあたりはいまの虐待問題を考える上で

参考になるかもしれません。


とはいえ、

一七世紀ぐらいまでのフランスは

かなり子どもに対してはひどい仕打ちをしているので、

フランスの子どもの扱い自体は参考にはならないでしょう。





三つ目

日本経済新聞2010年11月5日朝刊五面

「こども園」選択自由に
保護者 自治体介さず契約

政府は11月4日に開いた

「子ども・子育て新システム検討会議」の会議で、

幼稚園と保育園を一体化した「こども園」について

利用者が施設と直接契約する制度案を示した。




これが先に書いた新制度ですが、

この記事だとこども園が前提になってます。

ちょっとよく分からないのだけれど、

保育園が全部「こども園」にされるということなのか、

それとも、

幼稚園、保育園、こども園はみっつ並行してしばらく存在することになるのか。

そのあたりが不明。

調べます。




気になったのは次の一節。

「保護者は自治体と利用契約を結ぶ。このため保育所の間で質の向上につながる競争が起きにくいという問題が指摘されていた」。

……

また競争だよ。

あのさ、

保育園の間でどういう「競争」すんの?

日経新聞だから競争大好きなんだろうけど、

前から言っていますが、

競争、競争と言っている人たちは

対象を具体的に検討することができていません。

現実の現象を構成している数え切れないほどの要素を〝そぎ落として〟、

つまり抽象して、

話をしている。



たとえば、

こんどうちの娘は

お楽しみ会というので

かこさとし原作の

「オタマジャクシの百一ちゃん」

というのをやりますけど、

こういうことをやる上で

何か競争することありますか?



こんな話を思い出す。

むかし俺が院生のころ

軽作業のバイトをしていた時、

バイト先にネズミ講に引っかかった人がいた。

会う度に

「ネットワークビジネス! ネットワークビジネス!」

って言ってる。

で、それが聞いてもきちんと答えられない。

とにかく

ネットワークビジネスがいいと思い込んでいる。

「ネズミ講じゃないんですか?」って聞くと、

「そういう人もいるんですけどね、そういう人に「ネズミ講ってなんですか?」って逆に聞くと誰も答えられないんですよ」

なるほど、そういう風に欺せばよいのかと欺している人間に少し感心。




もう言ってることは全然意味不明で

「國分さん、東大もネットワークビジネスしてますか?」とか

わけわかんね。




さて、

「競争、競争」って言っている経済学者とか官僚とかを見てると、

この人を思い出します。

彼が

ネットワークビジネスを具体的に考えられず、考えられないが故にそれに取り憑かれているように、

彼らも

競争する現場を具体的に考えられず、考えられないが故にそれに取り憑かれている。



抽象性が必要ないって訳じゃないんです。

でも、

ひどすぎる。