プレビューモード

幼年期のブロック、泣いて馬謖を斬る

むかし、浅田彰の『逃走論』を読んでいたとき、マルクスはいまの自分の年齢の時にこんなことをしていた云々と書いてあるのを読んで、

ああ、浅田さんでも年齢のことを気にするのか…

と思ったことを思い出す。

誕生日に年齢のことを思うというのはベタですが、俺はベタな人間なので。

年齢のことをなんとなく思ってしまう時には、幼年期のことを考えてしまいます。

最近、オバマがアフガニスタンの軍の司令官を更迭した記事に

「オバマ、泣いて馬謖を斬る」

という表題がつけてあって、

ああ、俺はこの言葉を「闘将ダイモス」で知ったんだった

と思い出す。

小さい頃見ていたロボットアニメですね。

Youtubeで探してみたら、ありました。

http://www.youtube.com/watch?v=l_w6IowCxDs&feature=related

これの5:30あたりです。

「泣いて馬謖を斬る」って、今、あんまし聞かない気がするが。

子ども向けアニメでこんな表現を使っていたんだよなぁと。

このアニメではゲーテの引用がよくありました。

巨大ロボットが空手で戦うというとんでもない内容でしたが。

ドゥルーズ=ガタリが、「幼年期のブロック」という概念をつくっています。

「幼年期の記憶」に対立するものです。

これについては『ドゥルーズキーワード89』というすばらしい本が説明を加えてくれています。

ドゥルーズ キーワード89/芳川 泰久

¥2,100

Amazon.co.jp

「「幼年期のブロック」は「幼年期の記憶」と対立する概念である。「幼年期の記憶」とは、大人になった自分(あるいは子供自身)が、過去を振り返って思い出すような記憶のことだ。回顧的な視点から振り返られた幼年期は、過去のイメージになり、壁に掛けられた写真や思い出の品々の上に投影されるだろう。ドゥルーズとガタリが言うのは、子供は決して記憶されているようには時を過ごしていなかったし、遊んでいなかったということである」(p.154)。

この本については書評を書いたことがあるので、よかったら読んでください。

http://www.repre.org/repre/vol7/books/yoshikawa.html

「ドゥルーズとガタリの言う子供が、決してイメージによって代理表象されるがままにならないのは、彼らにとって子供は、対象から対象へ、とどまることなく欲望を移行させ、欲望の「接続を増殖」させてゆくからである。〔…〕子供にとって器官はさまざまな場所を冒険するものであり、あるところにはあらわれ、別のところにはないといった具合に、不確定なものでしかない。そして、子供自身も同様に、さまざまなものに変身し、あこがれの光り輝く場所に欲望を向け、つぎからつぎへと心を動かしながら嬉々として脈絡のないさまざまな軌跡を描くだろう。ドゥルーズとガタリの言う「幼年期のブロック」とは、子供には可能なこうした欲望の遍歴に、大人を巻き込むことであり、『失われた時を求めて』の語り手のように、自分がいまいつの時代にいるのか不確定になりながら、時をつなぎ経巡ることだ」(p.154)。

ブログではそれこそ「さまざまなものに変身し、あこがれの光り輝く場所に欲望を向け、つぎからつぎへと心を動かしながら嬉々として脈絡のないさまざまな軌跡を描く」ことが許される気がしますね。

確かに、自分で「僕ってこんな子供でした」って言っている人の記憶は信用できない。

マルクスが言っているように、或る人が自分について言っていることでその人を判断できないように、ある時代についての時代診断でその時代について診断することはできない。

けれども、——「幼年期のブロック」ではなくて——「幼年期の記憶」に助けられて生きていくところも人間にはあるような気がします。

俺もなんとなく「ダイモス」を見て言葉を覚えていたころの興奮を取り戻したいという気持ちがあります。

この「興奮」こそ「幼年期の記憶」でしょうが。

しかし、

そういう気持ちを否定はできませんね。

ベンヤミンが、歴史の天使は後ろを向いているのに、進歩という風に煽られて前に進んでいくと言っています。

分かる気がする。

まぁ、それでいいんじゃないでしょうか。