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忙しいとは何か? 象徴的構造の話とか、佐々木中の本の書評の話とか…

久しぶりです。

最近忙しかった。

あれですね、

みなさん、

いっぺんに複数の仕事をやることを求められませんか?

俺だったら、

授業の準備があって、執筆の仕事があって、本を読まなきゃいけなくて、で、

大学の事務的な仕事があって、

それもいろいろ締め切りがあって、

家だと小学校入りを控えた娘のために書類とかいろいろあって、

(最近はサボり気味だが)父母会の仕事とかもあって、

町内会では第五班班長なんでお金集めたりとか

なんか、

たくさんのことをいっぺんにやるのを求められますよね。

不思議なんですけど、

みんなもこんなにたくさんのこといっぱんにできてんのかなぁって。

俺だけじゃないの?

もちろん俺だけなわけなくて、

もっと仕事をいっぺんにやっている人はいるでしょう。

俺は

書くときもそうなんだけど、

二つの論文をいっぺんに書いたりできない。

一つ書くときは頭の中が全部それになんないとダメ。

ギリギリで書いてる。

ドゥルーズもガタリについて同じようなこと言ってた。

——フェリックスはたくさんの場所に所属している。

——フェリックスはいっぺんにたくさんのことをしている。

——自分はいっぺんに二つのことはできない。

問題は、

それぞれの仕事が属しているゾーンがあるけど、

そのゾーン同士が邪魔しあったりするってことなんですね。

まぁ

家で調子悪かったら、

授業の準備ができなくなるとか。

仕事ばっかりしていると、

家がほったらかしになるとか。

哲学的に言えば、

このゾーンってのは

象徴的構造という感じでしょうか。

象徴的構造同士はかならず不整合ですから、

その間で人間は困るわけですね。

そして人間はかならず複数の象徴的構造に属している。

だから一人の人間の中で複数の象徴的構造の間の衝突が起こる。

俺はこれが本当に苦手です。

ある意味で、

一つの象徴的構造の中でたくさん仕事が与えられても簡単なんです。

同じリズムでたくさんのことやればいいだけだから。

受験勉強とかそれですよね。

いま考えたら、

ものすごいたくさんの科目を勉強したりするわけだけど、

ああいうのはたいしたことない。

だから、

仕事が多ければ忙しいとは一概には言えない。

大変なのは、

自分にかかる象徴的構造が増えて

その間の調整が難しくなることです。

あたまを切り替えなきゃいけないし。

阪大で教鞭をとられている俺の先輩

村上靖彦さんがこんなことをおっしゃってました。

象徴的構造(村上さんもたしかこんな言葉を使っていたと思う)

はそれぞれリズムが違っている。

いわゆるウソや隠し事というのは

この象徴的構造の間のギャップによって、

構造的に要請されるものであって、

その意味で、

人間は必ずウソをつき

隠し事をする、と。

おもしろいですね。

逆に言えば、

正直にモノを言うとか

隠し事をしないとかが

いかに革命的な行為かってことですね。

つまり、

正直にモノを言ったり、

隠し事をしなかったりすると

象徴的構造に亀裂がはいることもあるわけでしょう。

もちろん、

その亀裂によって自分が苦しくなることもあるでしょうが。

複数の象徴的構造に挟まれつつ、

週末は、

話題の書、

佐々木中『切り取れ、あの祈る手を』

の書評を書きました。

来月発売される『文學界』に掲載されます。

みなさん、

文芸誌に載ってる書評とか、

テキトーに読み飛ばしていると思いますけど、

書いている方は必死なんですよ。

短いけど、

とにかくそのときはその本のこと、著者のことだけを考えてる。

日曜日の夜から月曜の朝にかけて

俺の頭の中は佐々木中のことでいっぱいになるわけです。

こういう風に言うとちょっと気持ち悪いけど。

他の方が書かれている同書についての書評もいくつか読んだ上で書きました。

是非お読みください。

あと、

来月はついに

俺の単著が出版です。

その宣伝は

改めて。