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教育者ドゥルーズ

東京に戻ってきました。

北海道も結構暑かった。

日本は亜熱帯になっているのではという話を雑誌で読みましたが(夏の高校野球はこの炎天下ではもはや無理ではないか等々)、

ほんと、そんな感じですね。

今日は台風で雨なんで、

熱さはありませんが、

今度は低気圧のせいか、

すごく調子が悪いです。



天候と体調の関係については大変興味深い本があります。

気象で読む身体 (講談社現代新書)/加賀美 雅弘


¥612

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この本によると、

ドイツには、今日の気象ではこういう症状が発生しやすくなる等々の情報が発表されているそうです。

ただ、そのまま公開してしまうとその情報を耳にすることで体調が悪くなるひとが出てきてしまうので医療機関にのみ情報提供されているらしい。



モンテスキューは気候と人間性の関係を論じています。

ルイ・アルチュセールはモンテスキューについての本を書いていますが、

政治と歴史―モンテスキュー・ヘーゲルとマルクス/ルイ・アルチュセール

¥1,890

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その中で確か、

気候による決定論というのに注目していたはずです。

意識が存在を決定するのではなく、存在が意識を決定する

このマルクス的認識がモンテスキューにもあるというわけです。

現存在ならぬ、気象存在とでもいいましょうか。





さて、

帰ってきたら注文していた本が届いてました。

このブログのコメント欄で西山雄二さんが教えてくれた本です。

Sébastien Charbonnier, Deleuze pédagogue -- La fonction transcendantale de l'apprentissage et du problème, L'Harmattan, 2010.

『教育者ドゥルーズ——学びと問いの超越論的機能』とでも訳せるでしょうか。


かなりいい本です。

というか、

やられた。

俺がもっとはやく書くべきだった…。



ジジェクが

アレンカ・ジュパンチッチの『リアルの倫理』への序文で書いているんですけど、

「以上をもって、このアレンカ・ジュパンチッチの本が本物の哲学書であるのみならず、今日の政治的・倫理的議論に対する多大な貢献であることを示唆するものとしたい。ならば結論として、私は、このアレンカの本に対して心からの敬意と賞賛を表したい、とでも言うべきだろうか? 答えは「ノー」だ。そのような賞賛は、自分を著者よりも数段高いところに位置づけていることを意味するのみである——私は高みから著者を見下ろし、ご親切にも彼やら彼女やらの仕事の出来映えを好意的に評価しているというわけだ。同僚の哲学者にとって真の敬意を表す唯一の反応は、嫉妬に悶え、そして憎むことである——何ということだ! 私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ! そうすれば私は、ぬくぬくとうぬぼれに浸っていられただろうに!」

まぁ、こういう気分。



あと、研究者だと、

こういう本に出会うと、

こっそりしまっておいて、

自分の論文のあんちょこにしようとしたりするんだけど(参考文献には本の名前をあげたりして…)、

そういうのは俺の性に合わないので、

すぐに公開。



とはいえ全部は読んでいないのでね。

いいなぁと思った数カ所を軽く訳してみました。

おもしろかったところを紹介します。



『アベセデール』(ドゥルーズが晩年に撮影した映像作品)のprofesseurの項目でドゥルーズは雄弁に語っている。「自分は講義をするのがとても好きだった」(p.9)。

いまドゥルーズの講義の録音がインターネットにも流れているし、教師としてのドゥルーズの見事さは誰もが認めるところ。でも、それは単に彼に教師として才能があったからというだけではない。確かにそうなのだが、彼が何よりもまず、学ぶとは何かということを熱心に考えていたから。

「要するにドゥルーズには教育に関しての「天賦の才能」があった。だが、人物についてのこうした評価はロマンティックなイデオロギーに彩られている。ドゥルーズの「才能」は、そうした人物についての評価以上に、彼が学ぶということが何を意味するのかを絶えず考察しようとしていたという事実によって説明できるものだ」(p.9)。

これは俺も折に触れて強調していることです。

『差異と反復』、特に第三章は教育についての偉大なる哲学の展開です。ものを考えるとは何かについて徹底して考えることは、当然、次の世代がものを考えていくためにはどうすればよいかという問いにつながる。

ドゥルーズは再認というモデルを徹底して批判し、出会い、あるいは出会いを組織することを考えますが、これもまた、生徒たちがどうやって新しいものに出会っていくかを考えることに他ならない。

あとこれは、この本で言われていることではありませんが、『スピノザの表現の問題』では、スピノザの言う第二種認識(理性的認識)——因みに第三種認識がいちばんすごくてこれは直観知——とは、出会いを組織することだと言われます。何かを論理的、理性的に、順序立てて考えることは、それ自体として出会いをもたらすわけではない。しかし、出会いの準備作業となるわけです。

このあたりは俺の来るべきドゥルーズ論でももっともっと展開し、強調したいところです。

さて、ドゥルーズと教育というテーマでドゥルーズにおける「学びapprentissage」のテーマの重要性が強調されることにはとくに驚かなかったんだけど、

次の点がすっごいおもしろいし、驚いた。

超越論的発生の問題と思考の、すなわち教育の問題の接続です。





これは『カントの批判哲学』の訳者解説でも書いたことだけど、

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)/ジル ドゥルーズ

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ドゥルーズによれば、

カントは超越論的領域を発見するというすさまじい業績を残した。

しかし、

超越論的領域を、経験的領域に似たものとして描いてしまっている。

カーボン紙でカーボンコピーするみたいに、

超越論的領域という白い紙の上に、経験的領域というカーボン紙を置いて上からなぞるようにして、

基礎付けるもの(超越論的領域)を、基礎付けられるもの(経験的領域)に準えてしまった。

だから超越論的統覚=「私」のようなものを前提してしまう。

「私」は経験的領域で観測できるものに過ぎないのに。

というわけです。

超越論的領域は、「私」とか意識とか自我とかそういったものとは無関係である、と。

だから、カントは経験論的なものの発生を描けていないとドゥルーズは考えたのですね。



ここまでは俺も分かっていたことだし、論文でも何度も書いています。

しかし、この著者のシャルボニエさんは、

この発生の問題を、思考の発生の問題として捉え直すことで、

教育の問題へとつなげてみせるのです!

おもしれー!


「ドゥルーズはカントとフッサールにおける偽の発生に反対していた。〔…〕教育における決定的な賭け金は、思考の真なる発生を構築しようとする気遣いより来る。〔…〕カントとフッサールは発生について思考する中で、すべてをあらかじめ自分たちに与えてしまっている。彼らは超越論的なものを、ベルクソン的な意味での「可能なもの」にしてしまっているのだ。」(p.24)

確かにそうだよなぁ。

どうやったら人は考えるようになるかって問いは、

思考の発生の問いであり、

思考の発生の問いは、

先の超越論的発生の問題と直結してるよ。

ここには気がつきませんでした。




で、

この

どうやったら人は考えるようになるのか

って問いについては

シャルボニエさんはこんな風に書いてます。

「いかにして生徒たちに哲学をしたいという気持ちを与えることができるのか? これは哲学の教師がいつも問いかけている問いである。ドゥルーズによるなら、この問いは既に問題の立て方がまずい。むしろこう言った方がいいのだ。いかにして生徒の中に思考を到来させるか? 思考の生殖性(génitalité)とは、思考の物理学の問いである。」(p.25)

おもしろいですねぇ。

これは大学の初年次教育なんかにも利用できる話です。




しかも、「思考の生殖性(génitalité)」って言葉が出ました(この訳でいいですかね)。

これについては実は『差異と反復』が参考になるのですが、

これは今度の論文で書く予定なので、

とっておこう。

これは

哲学において伝統的な、生得的と後天的の対立を突き崩す概念なんですね。





このシャルボニエさんの本、

出たばかりですので、どなたか翻訳なさってはいかがでしょうか。