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旧テキスト——佐々木中『きりとれ』書評

『文學界』の1月号に

いま話題の

佐々木中の本についての書評を

掲載しました。

もう雑誌も書店においていないので

ここで公開します。








なぜこの口調が必要か?

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』書評

 

國分功一郎

 

 

 本書は『夜戦と永遠』で注目を集めた佐々木中の第二作である。その中心テーマは〈読む〉ことである。読むことがどれほど爆発的な力をもっているか。たとえばルターは聖書を読むことで、この世界の秩序の無根拠を知った。ルターの起こした〈革命〉(=宗教改革)はそこからこそ説明されうる。かくして佐々木は、文学こそが「革命の本体」であり、「革命は文学からしか起こらない」と断言するに至る(八〇ページ)。この断言を、ルターはもちろんのこと、ムハンマド、更には佐々木がルジャンドルに依拠しつつ注目する中世解釈者革命を通じて確認していくのが、本書の大筋である。その中途では、諸領域をまたがる溢れんばかりの知識が惜しげもなく披露される。なかでも本の出版数(ルターは四〇年間でドイツ語で出た本の三分の一を書いてしまった等々)や、文盲率(ドストエフスキーがものを書いていた時期、ロシアの文盲率は九〇パーセントを超えていた等々)の話は破天荒におもしろい。

 とはいえ、内容をこのように要約するだけでは、本書を紹介するには不十分である。語り下ろしであるこの本の特徴は、何よりも佐々木の口調にある。これを佐々木の個性として理解し、分かった気になってはならない。佐々木は前著『夜戦と永遠』でラカンの難解さについてこのようなことを述べていた。ラカンの難解さはラカン的主体を生産するためのものである。その難解さに挑戦する長い過程を経て、ラカンの読者はラカン的主体へと生成するのであり、そのためにあの難解さが設えられたのだ、と。同じことを佐々木の口調についても述べるべきである。佐々木は単に己の知識を伝えたいのではない。この口調を通って読者が〈革命〉の主体へと生成することを求めている。

 やや唐突かもしれないが、ここで評者はデカルトのことを思い起こさずにはいられない。デカルトによる神の存在証明の一つに、神の本質には存在が含まれているから、神は存在している、というものがある(ア・プリオリな証明)。これだけを読んでも我々は納得できない。もちろんデカルトもそのことが分かっている。だからデカルトは、我々が自分たちの精神のなかにある神の観念についてゆっくりと省察し、この証明に納得できるような精神状態を自らの手で作り上げることを求めて、あの流麗なフランス語のエクリチュールで思索を促すのである。

 佐々木は現代の偉大なるデカルト主義哲学者ではないだろうか。彼の生き方、考え方、書き方はデカルトを彷彿とさせずにはおかない。佐々木はこれまで自分がどう生きてきたのかを語っている。高校を三ヶ月で中退する。大学に入ってからは、器用貧乏な「批評家」を生み出すための教養学部の教育システムに嫌気がさす。〈読む〉ためであろうか、あるときに美術・映画・テレビの鑑賞も、音楽活動も、スポーツ観戦もやめる。情報を遮断することを決意する。佐々木はそれを人に勧めるのではない。自分はそうしてきたと語るに留める。『方法序説』の著者もまた同じようにして自らの人生と哲学を語っていた。情報を遮断して本を読むことへと向かう姿は、すべてを疑い、小屋に閉じこもって、蜜蠟の溶ける姿を見ながら思索した哲学者に似ている。ルターを解説して佐々木が述べた言葉、「本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか」(五九ページ)は、世の中で確実と言われていることを信じられなくなったが故にあらゆる学問の基礎を探求しようと試みたコギトの哲学者にそのまま当てはまるものである。

 論述の仕方にも並行関係が見出される。デカルトは分析的方法を好んだ。それは結果を切り分け、そこから原因へと遡ることで事柄を認識しようとする立場である。認識すべき対象の十全な定義をあらかじめ立てるのではなく、与えられた結果から認識すべき対象へと向かう。佐々木も同様である。たとえば彼の国家論を見てみよう。佐々木はルジャンドルに依拠しつつ、国家の本質とは再生産=繁殖を保証することにある、と言う(一四〇ページ)。これはしかし、国家の「本質」というより、国家の本質より結果する諸帰結の一つである。これは国家の定義ではない。佐々木はむしろ、そうした諸帰結の一つから遡る形で国家に迫ろうとするのだ。その付近で佐々木は、マックス・ヴェーバーによる、暴力に力点を置いた国家の定義を批判しているが、それがなぜ批判されるのかと言えば、この定義が分析的ではなく、総合的だからである。原因から結果へと進む総合的方法(デカルトはこれを嫌った)においては、諸帰結のすべてが説明できるような定義が求められる。

 実のところ佐々木の分析的方法は『夜戦と永遠』にも既に見出されるものである。たとえば佐々木はラカンの言うシニフィアンを説明してこう述べていた。「何のことはない。シニフィアンとは単に、逆立ちした「充実した言葉」にすぎない」(『夜戦と永遠』、七二ページ)。これもまた、シニフィアンの定義から結果する諸帰結の一つを説明したものであって、シニフィアンの定義ではない。結果から事象へと遡ろうとする佐々木の方法は一貫したものである。

 総合的方法では、見当違いの定義のせいですべてが誤って説明される危険がある。分析的方法では、結果に過ぎないものが本質と見まちがわれる危険がある。見まちがいが起こる場合、それを引き起こしているのは論者の欲望である。その点で佐々木の国家論には注意すべきだろう。彼自身、あらかじめ反論を警戒し、なぜこのような国家論が保守・反動と呼ばれるのか、その何がいけないのか、根拠を示して欲しいと述べている(一四一ページ)。もしこの国家論が国家の一特性と本質とを取り違えているとしたら、そこから帰結するものは重大である。佐々木の側でも、読者の側でも、更なる検討が必要であろう。

 佐々木の分析的方法は、読者への働きかけを目指す彼の口調と切り離せない。結果から遡る論述は、あらかじめ十全な定義を立てる論述よりも強く読者に働きかけることができるからである。本書にたいしては既に賛否両論が入り乱れているが、それは働きかけを目指すこの本にとっては栄光である。単なる情報の伝達とは異なる〈読むこと〉〈書くこと〉がこの本を通じて体験されることこそを佐々木は望んでいるはずである。