プレビューモード

映画が思考できるのはなぜか?——スピノザ平行論とゴダール

土曜日はジュンク堂新宿店にて、

 

平倉圭『ゴダール的方法』の出版記念イベントとして

 

平倉くん、千葉雅也くんと話をしてきました。

 

お越しくださったみなさんありがとうございました。

 

 

 

俺は

 

平倉くんが扱った「正しさ」の問題に関心がありましたので、

 

そこについて質問。

 

ゴダールの映画は「なし崩し」的に複数の映像が「類似」を通じて結合される。

 

ではその結合はいかなる意味で「正しい」のか?

 

——平倉くんはそれを問う。

 

「正しいjuste」という言葉はゴダール自身の言葉です。

 

平倉くんは『ゴダールのリア王』の中に現れるプラギー教授の「実例教育」をヒントにこの問いに向き合っていきます。

 

 

 

さて、

 

議論が進む中でこんな話になっていきました。

 

世界そのものがもしかしたらゴダール的なのではないか?

 

「類似」によって「なし崩し」的に「結合」した断片からなる世界。

 

ということは容易にバラバラになる世界。

 

結合とバラバラの可能性が共に等価であるような世界。

 

 

 

この議論が出たとき、

 

俺の頭の中で何かがぐるぐるしながら

 

しかしうまく答えられませんでした。

 

なんなんだろう…と帰ってからもずっと考えていたんですが、

 

時間がたって少し、自分が引っかかっていたことが見えてきたかなぁ、と。

 

 

 

ポイントになるのは平倉くんの本の冒頭にある

 

「映画が思考する」

 

という命題(?)です。

 

 

これもまたゴダールの言葉です。

 

ゴダールによれば、

 

映画を作っている時、考えるのは映画であって、私ではない。

 

私はむしろその思考の証人=目撃者témoinである…。

 

 

 

映画が作り上げられる際、

 

考えているのは映画である。

 

映画が考えるのです。

 

 

 

するとやはりここで、

 

スピノザ主義者としては

 

スピノザが言った「精神の自動機械」という話を思い起こさずにはいられない。

 

 

 

スピノザは、

 

精神とはそれ自体で運動する機械のようなものだと言いました。

 

どういうことかというと、

 

スピノザによれば精神とは観念の集合です。

 

観念を取り払って残るような精神の芯みたいなものはない

 

(なお、ライプニッツはそのような芯を想定します)。

 

 

 

ではなぜそのような観念の集合である精神は自動運動するのか。

 

ここで「自動」とは、

 

そうした観念の集合が、

 

観念のオーダー以外のいかなるオーダーからの干渉も受けないということを意味しています。

 

観念に影響を与える、すなわち、或る観念と因果関係を結べるのは観念だけである。

 

観念は諸観念のネットワークの中でのみ運動するのです。

 

これを心身平行論と言います。

 

 

物理的な実在の世界は精神が運動する世界に影響を与えない。

 

というか、二つの世界は同じ運動の二つの表現である。

 

簡単に言えばこれが平行論です。

 

 

するとこうなります。

 

精神が自動機械であり、それ自身で思考という運動を自動的に駆動するのは、

 

世界が平行論的であるからということです。

 

 

 

さて、ここからゴダールの

 

「映画が思考する」に戻るとどうなるか。

 

 

ゴダールによれば映画が思考すると言う時の思考とは

 

二つのイメージの間で生成する類似を発見することに他ならない。

 

一つのイメージは原事象(オリジナル、実在)へと差し戻されてしまうが、

 

二つのイメージはそれらの間で内在的な関係性の領野を作り上げる。

 

その領野の発見こそが映画の思考である。

 

 

 

一つのイメージから考え、それをオリジナルな原事象へと差し戻すような思考はまさしく

 

非平行論的なモノの見方です。

 

 

それに対し、

 

イメージの間だけで、その関係性を問う、

 

これはまさしく平行論的ではないか。

 

 

 

別にゴダールが平行論的がどうかはどうでもいいのですが、

 

俺が思ったというか、イベントの時に「思う」寸前まで行っていたのは、

 

ゴダールの言うような意味で「映画が思考できる」のは、世界がやはり「ゴダール的」だからではないだろうかということです。

 

そして、この「ゴダール的」ということの意味は

 

かなり平行論的世界観に近いのではないか。

 

「錯乱した平行論」と言ってもいい。

 

 

 

それこそ、

 

『ヒア&ゼア こことよそ』という映画ではヒットラーとゴルダ・メイア(第4次中東戦争の際のイスラエルの首相)がイメージの上で結びつけられるけれども、

 

ヒットラーのイメージについて人が思うこと、

 

ゴルダ・メイアのイメージについて人が思うこと、

 

そういうこととは無関係にイメージがイメージだけで結合されてしまう。

 

 

 

 

スピノザは

 

属性は無限個存在すると言った上で、

 

人間にはその中で、

 

延長の属性と思惟の属性のみが認識できると言っています。

 

要するに、事物と観念ですね。人間で言えば、身体と精神。

 

 

 

ですが、ゴダール的に考えるならば、

 

もしかしたら、

 

三つ目のオーダーとして、

 

イメージの水準があるんじゃないだろうか?

 

 

 

これはかなりテキトーなことを言っています。

 

思いつきですので、許してください。

 

 

 

でも、

 

そう考えると、

 

なぜ映画が思考できるのか

 

が分かるような気がします。