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暴露

日曜日の夜に新宿のジュンク堂で白井聡君と、彼の著書『「物質」の蜂起を目指して——レーニン〈力〉の思想』(作品社)の刊行記念トークショーをやってきました。

定員オーバー、立ち見が出るほどの大盛況でした。

お越しくださったみなさん、ありがとうございました。

話は本当に多岐に及んだのですが、

このときに考えたことを今度紙媒体に書く機会が得られたので、

ここではそのときに話したことからひとつだけ。

白井君は、レーニンが「暴露」という手段を重視していたことに注目しています。

「暴露」というのは社会の底辺にいるひとたちが蒙っている様々な不正を

社会に対して明らかにしていくということです。

こういうことを言うと、

レーニンは何か社会的正義のようなものを振りかざし、

勝手に真理を押しつけてくる運動家のように思えてくるかもしれません。

しかし、白井君はそこで次のように言います。

「レーニンいわく、労働者階級が自然に後者の認識〔労働者階級の利害が資本主義の制度と和解不可能な形で対立しているとの認識〕にたどり着くことはない。労働者が労働者である限り、労働者としての彼らにとっての幸福とは、労働力の販売の条件がより有利なものとなることのみであるからだ」(p.218)。

これは決定的に重要な話であると思います。

たとえば資本主義の枠内に押し込められた労働者は、

その枠内で希望できることしか希望できない。

その枠の外側に至るのを望むことがない。

労働者は、いまの体制をどうこうするということなどそもそも欲望しない。

彼はただ、労働者として、自分の労働力の販売がうまくいくこと(賃金労働者として働けること)

それしか望まない。

だから、自己反省という手段も退けられます。

労働者は自分で自分のことを考え直しているだけでは、自分が何ものであるのかの認識には到達し得ない。

自分の外に、媒介者が必要である。

それが革命家だというわけですね。

そしてその革命家は「暴露」を行う。

白井君の本のひとつの売りは、

レーニンをフロイトと並べているところです。

彼によれば、

「革命家-労働者」の関係は

「精神分析家-患者」の関係に等しい。

そこで思い出したことがありました。

ジャック・ラカンという精神分析家・哲学者がいます。

彼はあるとき、「患者」を名指すのに使われてきたpatientという語をやめて

analysantという語を用いることを提案するのですね。

analysantとはanalyser(分析する)という動詞の現在分詞ですので、

つまり、analysantとは「分析する者」を意味します。

それまでは、精神分析家が〝分析する者〟であり、患者はそれを受ける者(patientには、何かを受けるという意味がある)であったわけです。

しかし、ラカンによればそうではない、と。

精神分析における患者とは、分析家を媒介として、自分を分析していく者なのだ、と。

いわば、分析家はその患者による分析のお手伝いをするのだ、と。

おそらく、革命家も同じなのでしょう。

患者は精神分析家を媒介として自己分析をしながら、心の真理と出会う。

民衆もまた革命家を媒介として、何らかの真理と出会う。

革命家は来るべき民衆に向かって暴露を行い、

そして彼らが真理を発見するや、

消滅していく…。

白井君はそういうことを書いています。

俺は、現代はおそらく新しい「暴露」の方法が必要とされていると言いました。

スペクタクル社会あるいは消費社会は、

社会の悲惨から目を背けるための

あるいは、すぐにそれを忘れるための手段を

無際限に提供している。

消費社会が提供する消費財というのは、

いわば精神病治療における薬物のようなものです。

病の根源に遡ってそれを治療するということはめざさず、

薬で症状を押さえ込む。

消費財もまた、

社会の悲惨に人々が目を向けて社会がざわめくのを抑えつけている。

精神分析は現在、薬物治療の発達により失墜しつつあります。

しかしそれで本当にいいのか。

もちろん、薬物で楽に生きられる人がいるなら、それは否定はできない。

しかし、根源に遡るという営みを否定してしまっていいのだろうか。

いまこの社会で「暴露」について考えるとは、

「薬物」に慣れきっている社会の中で「治療」を考えるようなものなのでしょう。

白井君は「我々はどんな悲惨にも慣れてしまう」と言いました。

それが問題なのだと。

確かにそうです。

しかも、それに慣れてそれを忘れていけるような回路が無数に用意されている。

そうした薬漬けの社会の中で、薬ではなくてモノと付き合う、そんな方法はないだろうか。

そんな方向へと話は向かっていったのでした。

そこからガストロノミーの話が出ました。

——おいしいものをおいしく食べよう。

これは、食べ物がもっている何らかの真理を発見する行為です。

そうやって生きていくのなら、どんな悲惨にも慣れてしまう我々であっても、

時に何らかの事件や真理や悲惨に出会うことがあるはずです。

記号の消費とは違う、モノの受け取りが可能になるはずです。

ところで、

白井君にも言いましたが、

レーニンって

ものすごく

おいしそうにものを食べそうな顔してませんか。

そしたら白井君におしえてもらえたんですが、

レーニンがものすごくおいしそうにジャガイモを食べる映画があるそうです。

(レーニンを演じているのはもちろん俳優だけど!)