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書き直しとは何か?

いま

出版に向けて博士論文を書き直ししているのですが、

書き直しというのは本当に大変なものです。

この博論は

審査を通るまで

本当に何度も書き直ししました。

最初に書いた時は半年もかからなかったと思いますが、

その後四年ぐらい書き直しをしていた。

まぁ

本当に

「もうだめだ」

って挫折しかけたときもあったんですが。

指導してくださった先生から

本当にお力添えと励ましをいただき

それでなんとか完成に至った次第。

書き直しをしながら、

書き直しとは何か?

についてずっと考えていました。

なんでこんなに大変なのか。

修士の時のことですが、

修士論文というのは確か年末に提出だったんですね。

で、

俺は夏休み前に一度書き上げ、

それを当時指導してくださっていた先生に見てもらったわけです。

あと、

中間報告だかそういうのもありました。

そこでいろいろコメントをいただいた訳です。

当然、批判的なコメントですね。

普通はそれを生かして書き直すのですが、

結局それが面倒になり、

もう一度別のものを書いたんです(コメントをいただいた先生方すみません)。

それぐらい

書き直しというのは大変なんです。

新しく書いた方が楽なぐらいなのです。

では

なぜ書き直しは大変なのか?

博論を書き直しながら

デリダの翻訳なんかもやっていた俺が考え至った

デリダ的(?)テーゼというのは

——書き直しは不可能なものの経験である

というものでした!

いえいえ

ふざけているのではないんです。

書き直すというのはそもそもどういうことでしょうか。

もし書き直しを経て新しいものが出来上がったなら、

それは書き直しではありません。

新しく論文を書いただけです。

しかし、

新しいものが出来上がらなければ

書き直しではありません。

直されていないことになります。

つまり、

書き直しは、

デリダ的(?)に言うと

新しいものを来たらしめねばならないが、

新しいものを来たらしめてはならない。

だから「不可能なもの」である。

まぁ、

こんなことを考えていました。

もちろん、

このテーゼに対しては

更にデリダ的に

——不可能なことをなさねばならない

と答えねばならないわけですが。

多分、書き直しというのはシステムの問題と関係があります。

「書き直しは不可能なものの経験である」というのはもちろん大袈裟な言い方であって、

普通は、その書き物がシステムとして不完全だからそれを見つけて直していくってことになります。

俺も書き直しながら、基本的にはそういうことをやっていたし、やっているわけです。

でも——あり得ないけれど——完璧なシステムを形成している書き物があったとしましょう。

これは書き直し不可能なのか?

たぶんそんなことないんですね。

ドゥルーズが言うように

あらゆるシステムは水漏れをおこしている。

あるいはデリダが言うように

あらゆる構築物は脱構築可能である。

おそらく書き直しというのは、

システムの水漏れ地点に身を置いて新しいシステムを構築することであり、

ある種の脱構築の作業であると思います。

書き直しというのは、

書き物というシステムのひとつの潜在態を顕在化するということなのでしょう。

フーコーは本を書くとき

一度原稿を書き上げてから

それを廃棄して

もう一度書いたらしいです。

『知の考古学』には出版されなかった第一版がある。

(因みに俺の友達のギヨーム君がこれを研究してたんですが)。

これはなんとなく、「ブラッシュ・アップした」ということで片付けられてしまいますが、

先に書いた

書き直しの不可能性というテーゼを念頭において考えると

結構変なことです。

なんで書き直しできるのか。

それは書き直したんじゃなくて

結局、新しいものを書いたということじゃないのか?

いや、多分そうではない。

フーコーは『知の考古学』の体系を一度作り上げたけれど

書き直しながら、

その体系に潜在していた別の体系を顕在化させていった。

そういうことじゃないでしょうか。

哲学における書き直しの問題というのは興味深いものです。

因みに、

俺の博論も

直接に書き直しの問題を扱っているわけではないんですが、

スピノザによるデカルト哲学体系の再構築の問題を扱っていて

これは書き直しの問題に直結しています。

こんなことを書いて、

書き直しから逃れようとしていたのですが、

また作業に戻ります…。

あと、

俺の論文の書き直しは

そんなに大袈裟なもんじゃないです。