プレビューモード

校正刷りのこと、『週刊読書人』での『スピノザの方法』出版記念対談

またまたずいぶん間が空いてしまったのですが、

この間はずっと

来年1月末に発売される

俺の博論『スピノザの方法』の最終チェックを行っていました。

本の作り方についてあまり詳しくない人のために書くと、

校正刷りというのがでるんですね。

コピー用紙に見開きページが印刷してあるやつです。

それに

赤ペンで手を加えていくんです。

情報化社会といっても

本を作るときにはやっぱり原始的なやり方なんですね。

で、

これが大変なんだ。

やはり

さらっと読んでいくのとは全然違うから。

目が疲れる。

しかも俺は細かいミスが多い。

「キェアレス・ミス」

という言葉を

小学校一年生の時から

どれだけ聞かされてきたことか…。

二度目に出る校正刷りを

再校と言いますが、

再校の段階になっても、

訂正多数。

こわい。

特に俺の本はスピノザについてのものだから、

ラテン語の引用がけっこうあるんだけど、

そのチェックが大変…。

たとえば、

eandemをeamdemと書いてあった。

(というか、引用先のアッピューンの仏羅対訳エチカが間違ってたんだけど。もういちどゲプハルト版と付き合わせておいてよかった)。

その他、日本語表現のブレ。

これは書くと読んでくれた人がチェックしそうだから

例を書くのは怖いな。

とにかくそういものが多数。

ほとんどは編集の方にご指摘いただき、

あわてて訂正。

なんとなく思い出しましたが、

デリダが

ブランショ論のなかで、

とあるブランショの短編小説のタイトルに注目。

確か、

表紙の目次にはタイトルが

recit ?

とあるのに、

本文だと

recit

になってるとか、

そんな話だったとおもいますが、

(『境域』——あの翻訳は素晴らしいですね)

デリダはいつものようにそういう細かいところにこだわるんだけど、

あれは

ブランショの校正ミスじゃないのかなぁ。

まぁ、そこから引っ張り出してくる話が面白いからいいんですけどね。

校正って本当に大変ですね。

自分がいかにテキトーに文を書いているかを

体験させられます。

初めて校正の専門家に見ていただいた時は、

ほんと恐縮した。

あぁ、俺なんかの文章をこんなに細かく見ていただいてすみません…

って感じでした。

あと、

まぁその人だけかもしれないけど、

字がものすごく小さくて

めっちゃキレイだった。

書き込むわけだから、

小さくてキレイな字じゃないとダメなことも多いんでしょうね。

『マルクスと息子たち』の時の話です。

さて、

最初に出る校正刷りを

初校と言いますが、

他の人はどうかわからないけど、

俺の場合は、

初校でもかなり踏み込んだ訂正をしますね。

いや、してしまう。

そういうことはするまい!

入稿時で完璧な原稿に仕上げるぞ!

って意気込みなんですけど、

やっぱり、

直したくなっちゃう。

今回も、

大幅に入れ替えとかをしました。

編集の遠藤さんに

大変ご面倒をおかけしました。

遠藤さん、ありがとうございます。

昔、

『批評空間』に書いた時に

編集の人から聞いた話なんですが、

柄谷行人は

校正刷りでは

ほとんど訂正しないそうです。

それぐらい

出来上がった、完成されたテキストを入校してるってことですね。

すごい。

これは本当にすごい。

あと、

『批評空間』での校正刷りと言うと、

浅田彰さんの手直しはすごかったですね。

浅田さんも

直しの入れ方がものすごいキレイ。

線の引き方とかなんですけどね。

お恥ずかしい話なんですけど、

あまりにキレイだったんで、

記念として大切に保存してあります。

最初に見ていただいたのは

ドゥルーズの「無人島の原因と理由」というテクストの翻訳でしたが、

なるほど

という手直しをいろいろいただきました。

これは書いてもいいと思うんで書きますが、

『批評空間』に掲載されていた翻訳は

浅田さんが全部原文チェックをしていました。

これってマジすごくないですか?

俺のもフランス語原文と全部付き合わせて見てくれているんですよ。

あの雑誌はたくさん翻訳が載ってましたけど、

それを全部チェックしていらしたそうです。

やっぱ、

そういう努力というか、

仕事のきっちりさがあったから、

あれだけのものが作れていたんですね。

ある人から聞いた話ですけど、

自分は翻訳にはけっこう自信があったけど、

浅田さんチェックでものすごく訂正されて

落ち込んだとか。

俺はそういうのはなかったです。

残念だったのは

その翻訳が

権利の関係で掲載には至らなかったことです。

こればかりは仕方ないですね。

でも、校正刷りは俺の手元にまだあります。

さて、

話がそれてしまいましたが、

俺の博論『スピノザの方法』ですね。

これについて

まだ本にもなっていないのに、

出版記念対談というのをやってきました。

昨日27日です。

来年2月4日発売の『週刊読書人』に巻頭で載ります。

対談してくださったのは

萱野稔人さんです。

萱野さんは

例の再校の段階で全部丹念に読んでくれました。

ぺらぺらの紙だから読みにくかったと思います。

しかもものすごい短期間で読んでくれました。

萱野さん、ありがとう!

対談の内容ですが、

かなりおもしろいものになったと思います。

最終的にはスピノザの平行論をどう捉えるかという話になりました。

平行論の理解で、

萱野さんと俺とではズレがあったんですけど、

そのズレを踏まえた上で、

二人で新しい話ができたという感じでした。

萱野さんは

〈我々がそうであるところの観念〉と〈我々がもっている観念〉

のズレに注目し、

前者は平行論の枠内に入るが、後者はそうではなく、

前者と後者をどうやって一致させるかというのが

『エチカ』の目指すところがという解釈です。

この場合、

前者は十全な観念で後者は非十全な観念ですね。

俺は、

非十全な観念も含めて説明できるのが平行論

という立場。

で、

それについて脳神経学者アントニオ・ダマシオのスピノザ理解の話を紹介しました。

萱野さんはそれに大変興味をもってくれて、

最後は

そういう解釈も確かにあり得るな、

という感じになりました。

あんまり書くとネタバレになっちゃうのでこれぐらいにしようと想いますが、

萱野さんは

俺の本は

「ラディカル化された平行論」

へと向かっており、

そこにはものすごい可能性があるという結論を言ってくれました。

いやぁ、

確かに、

平行論はおもしろいですよ。

平行論については詳しくはまた書きますけれど、

哲学史的には

平行論ってちょっとキワモノ扱いされているところがあるように思います。

それがなぜなのかって話もしたんですけど。

俺の本では「デカルトと説得」というのが一つテーマになっているのですが、

デカルトは説得に向かうのに対し、

スピノザの平行論的な思考はそこには向かわない。

でも、

やっぱり説得も無視はできないって話にもなった。

実は

俺は

デカルトに対してアンビバレントな想いがあって

それを後書きに書いているんですね。

萱野さんはそこもきちんと読んでくれていて、

「そこはどっちかだけ[スピノザかデカルトか]ってわけにはいかないよね」

とコメントしてくれました。

なんか、

後書きまで内容に踏み込んで解釈してくれていたのは

感激。

とにかく!

おもしろい対談になったと思いますので、

『スピノザの方法』とあわせて、

『週刊読書人』掲載予定の萱野+國分対談にも期待してください!