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核廃棄物巡礼地

福島の原発事故ではたくさんの専門家がメディアに登場しました。

正直言って、

誰を信用したらいいのか、

難しいです。

当初

ツイッターで原発の情報を解説してくれる方をフォローしていて

ずいぶんと信用していたのですが、

途中から

その方の発言に強い疑問を持ち始めたということもありました。

この前の日曜日

4月17日の東京新聞特報欄で、

月刊『創』編集長篠田博之さんが

「原発学者の評価 分かれる」

という記事を書いていらっしゃいました。

前のエントリーで『週刊現代』をお勧めしました。

意見はそれ以降も変わっていませんが、

『週刊ポスト』は

そこで出てきた学者たちを批判しているそうです

(俺はこちらは読んでいません)。

『週刊現代』を名指しで批判しているそうです。

とにかく、

いろいろな意見、

複数の意見にあたるしかないと思います。

当たり前ですけど。

どんなに信用できると思った人、学者でも、

崇拝したり、心酔してはダメですね。

これも当たり前です。

俺はスピノザについて勉強してきたし、

スピノザは好きです。

すごいと思っています。

けれども

スピノザの言っていることの全てをそのまま受け入れるわけではない。

スピノザを崇拝したり、スピノザに心酔したりはしていません。

たとえばスピノザの『国家論』の末尾。

すごいことが書いてあります。

「人はおそらく尋ねるであろう。女が男の権力のもとにあるのは本性のゆえにかそれとも法制のゆえにか、と。なぜなら法制のゆえにのみそうだとすれば、女を政治から除外しなければならぬ何の理由もないからである。

 だがもし経験そのものに諮るなら、我々はそれが女の無力から来ていることを知るであろう。なぜなら、どこでも男と女とがともども支配しているところはないのであり、男と女が住んでいる地上のいたるところにおいて、男は支配し女は支配され、しかもこうやって両性が和合的に生活しているのを我々は見ているからである。だがこれに反して、かつて支配していたと伝説に言われているアマゾーンの女は男が国内にとどまっているのをいさぎよしとせず、女児のみを育て、男児はその誕生後殺した。ところでもし女が本性上男と同等であり、また精神の強さと知能と(この点にこそもっぱば人間の力、したがって権利は存する)において同価値であるとしたら、これほど多くのまたこれほどさまざまな民族の間には、両性が等しく支配している民族、あるいは男が女から支配されかつ教育されて精神的に女より劣っている民族が少しはあってもいいはずである。ところが実際はどこでもそうはなっていないので、我々ははっきり主張しうる。女は本性上男と同等の権利を有せず、むしろ必然的に男の下に立たなければならない。したがって両性が等しく支配するということはありえぬことであり、まして男が女から支配されるということはなおさらのことである、と。

 なおまた我々が、人間の諸感情を眼中に置くならば——すなわち男はおおむね官能的感情によってのみ女を愛すること、男は女の才能と知恵とを、女が美においてすぐれている限りにおいてのみ高く評価すること、また男はその愛する女が他の者に何らかの行為を示すことを最も厭うこと、その他こうした種類のことどもを眼中に置くならば、男と女が等しく支配することは平和をひどく損なうことなしには不可能であることを我々は容易に知りうるであろう。

 しかしこれについては十分である。

(以下を欠く)」

スピノザ、『国家論』、畠中尚志訳、岩波文庫、p.190-191

( ゚д゚)

しかもこれが未完の書物の末尾。

うーむ、

ドゥルーズは

『国家論』はいみじくも民主制の章で中断されている

と言っていますが、

(『スピノザ 実践の哲学』、鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー、p.26)

むしろ

いみじくも女性差別の主張、セクシスト発言で中断されている

と言うべきでしょう。

まぁ、そうすると、

スピノザもこう書いてはみたものの

やっぱり、なんかおかしいかなぁ

とか悩んでいる内に肺結核で死んだのかもしれませんが。

とにかく

誰に対してであれ、心酔したり、崇拝したりはいけない。

そのためには

たくさん意見を聞いてみるしかない。

もうそれしかないと思います。

原発について

俺も自分のできる範囲で意見を聞いたり、情報を集めたりしています。

白状しますが、

俺も一時期

15年ぐらい前ですが、

原発も仕方ないのかなぁ

と思ったこともありました。

ですが、

いつからだったか、

フランスに行ってからでしょうか、

やっぱり何かおかしいと思い始めました。

いくつかきっかけがありますが、

やはり

こんなに電力を使う必要はないというのが大きいですね。

あと、

近いうちに石油が亡くなるというのがウソだったと分かったことも大きかった。

俺が小さいころ

70年代後半は

石油はあと30年でなくなると言われていました。

で、

30年たったわけです。

なくなってない。

学研のひみつシリーズ(当時の愛読書)にも

確か「なくなるかもしれない」という言い方ではありましたが、

そう書いてあったように記憶しています。

今思えば、

原発を推進していた日本政府が

意図的に流したデマのようなものだったのでしょう。

いや、

当時は政府もそういう恐怖をもっていたのかもしれません。

意図的なウソではなかったのかもしれません。

しかしいずれにせよ、

それは間違いだったわけですね。

いろいろうさんくささを感じます。

リニアモーターカーだって、

俺が小学生の頃には既に莫大な金が投じられて開発されていたんですよ。

何年やってんだよ!

で、

いまさら造るとか。

東京から大阪までこんなに早くとか言うけど、

飛行機でいいんじゃないですか?

リニアモーターカーの開発に使ってきた金を

低価格太陽光発電の開発に使ってきたら、

いまごろどうなっていただろうと思います。

太陽光じゃなくてもいいですよ。

他にもいろいろあるでしょう。

ツイッターではマグネシウムにも可能性がある

と教えてくださった方がいました。

小さい頃見ていた

『科学忍者隊ガッチャマン』では

地球のマントル層の熱をつかって

エネルギーを創り出す「マントル計画」が描かれています。

悪の組織ギャラクターは

その計画を推進する国際科学技術庁を攻撃するんですね。

そういうことができるのかどうかは知りませんが、

アニメでもそういうことを考えているぐらいだったわけで、

他にも可能性はあったでしょう。

みんな考えようとしていました。

それが国策で原子力一本になっていった。

その裏には

「被爆国」日本の対米反発感情を

「毒をもって毒を制す」の精神で押さえ込む

つまり

原子力発電のすばらしさを喧伝することで

原爆の記憶をやわらげようという

アメリカと日本の戦略があったらしいです。

そのことは

このNHKスペシャルで描かれています。

「原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK」

youtubeで見れますのでぜひ。

(なお、俺は「被爆国」という言い方はあまり好きではありません。

「国」なんて抽象的なものは被爆しません。

被爆するのは人であり、土地であり、建物であり…、具体的な存在者です。

この言葉には、原爆被害を逆に国家が利用する、そういう雰囲気があります。

あと、これは言うまでもないだろうけど、今でもたまに聞くから言いますが、

「唯一の被爆国」ってのは本当にやめてほしい。ウソだから。

マーシャル諸島の人たちは水爆実験のせいでいまでも元の島に帰れていない。)

さて、

話が長くなっていますが、

最近、

新聞で大変興味深いドキュメンタリー映画のことを知りました.

(東京新聞2011年4月11日朝刊)

フィンランドの映画

「100,000年後の世界」。

渋谷のアップリンクで上映中だそうです。

これはヘルシンキから西約240キロの島オルキルオトに

放射性廃棄物を貯蔵する地下施設を建設するプロジェクトを紹介したものだそうです。

早くみたいのだけれどまだ見てません。

このプロジェクトでは

100,000年

つまり十万年先まで人類に害を及ぼさないように計画を進めているのだそうです。

十万年後までこの地を掘り返さないよう

どういうメッセージを残せばいいのか。

研究員たちは真剣に議論している。

「六万年後に氷河期がきて一体はツンドラに覆われる」

といった会話が真剣に交わされる。

作品にはSF的な雰囲気も漂っていると言います。

この映画のことを知って、

いろいろ考えました。

特にこのSF的雰囲気すら漂っているというところ。

我々は十万年先までのことを考えないといけないような物質を使って電気を得てきた。

やはりそれはおかしい。

先に書いたように俺なりにいろいろな意見や情報を集めました。

で、

原子力発電はやめた方がいいという気持ちは変わりません。

しかし我々は既に大量の核廃棄物を有している。

ではどうするか。

十万年先まで貯蔵できる方法をとりあえずは考えざるをえないでしょう。

その上で、

俺はこう提案します。

貯蔵場所を巡礼地にする。

我々がとんでもないものを創り出してしまったことを忘れないために

貯蔵場所を巡礼地にして、

一種の信仰の対象にする。

俺が考えているのは

フロイトの『モーゼと一神教』です。

あの本では、

人間は自分たちがかつて原父を持ち、それを撃ち殺してしまったということを独特の仕方で常に記憶していた

と言われます。

そしてその記憶が

「エスの中での無意識状態から意識へと突き進んでくる」

その様が描かれています。

核廃棄物巡礼地を

我々の意識を縛る記憶の場にできないだろうか。

何百年後か、

いや来世紀ぐらいには、

多分、歴史の教科書に…

《当時の人類は図に乗って自分たちの手に負えない物質まで使って電気を得ようとしました。そのために取り返しのつかない事態を引き起こしました。》

と書かれるでしょう。

ならば、

《そのため人類はこの過ちを忘れないよう、自分たちが創り出してしまったその物質を半永久的に閉じ込めた上で、その場所を巡礼の地とし、自分たちへの戒めとしてきたのです。》

とはできないか。

碑銘にはたとえば…

《過ちを忘れないことこそが進歩の礎であることをわたしたちは忘れてはなりません。》

少し口調が戦後民主主義っぽいでしょうか。

でも、人類はもうほとんど信仰にまで関わってくるようなものを創り出してしまっています。

十万年後なんてSFですから。

でも、それがSFじゃなくて、いま目の前で問題になっています。