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棲まうことhabiterと習慣habitude——住むことは占領することである

なかなか思うように更新できない日々が続いております。

もう一週間以上前になってしまいましたが、

10月3日の千葉雅也君とのトークショーの模様を簡単に報告。




まず、

会場になった

3331Art Chiyoda

という場所ですけど、

廃校になった中学校をアートスペースに改造したもの

ということでした。

これがすごいいい場所で、

無理なく改造してあるところがよかったです。

みなさん

お時間があれば是非。

いろんなイベントや展示を同時に行っています。





さて、

二人の対談ですが、

タイトルが「可塑的な無人島」

ということでした。

どれほど知られているかは分からないのですが、

ドゥルーズには無人島を論じたテクストがあります。

なんで無人島が哲学の対象となるのか、

不思議に思われるかもしれませんが、

俺の言葉でいえば、

ドゥルーズの思想の核を担う形象(figure)

千葉君の言葉でいえば、

ドゥルーズの思想の雑多な要素が折り重なったエンブレム。

そんな感じのものですね。

たとえば、

『意味の論理学』におさめられた

「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」を参照してください。

意味の論理学 下/ジル ドゥルーズ

¥1,050

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いくつもポイントはありますが、

ひとつ紹介すると、

ドゥルーズは

無人になると

人間の知覚の構造はどうなるかということを考えているんですね。

簡単に言うと、

他者がいて、無人ではないから

知覚が成立すると言っているんです。







例えば

我々は漠然と

世界はいまこの瞬間に存在していると思っています。信じています。

しかし、

自分が見ているのは自分の目の前のものだけです。

いま俺が見ているのは

俺のパソコンの画面だけです。

でも自分に見えていないものも存在していると信じられるのは、

それは自分以外の他者がそれを見ている、経験していると信じられるからだ、

とドゥルーズは言うのです。






変なことのように思われるかもしれません。






でも、

俺はこれがものすごくピンときました。

自分の幼い頃の経験を思い出したんです。





幼稚園生ぐらいの頃だったか、

母親の友達の子どもと遊ぶ機会がありました。

遠くに住んでいるので、本当にたまにしか会わない。

母親同士が約束をとりつけて会う時だけだったでしょう。

一年に一度ぐらいものです。

でも、

子どもですから、

すぐになかよくなって、

その日は猛烈にその子と遊んだわけです。

二人で濃密な遊びの時間を過ごすわけです。

そしてバイバイ。

家に帰る。





帰ってからです。

その子がいまこの瞬間にも生きていて、

存在しているということが、

不思議でならないというか、

実感できないんです。

自分以外の、

自分に見えていないところにいる存在が、

いま自分とは無関係に存在し続けているということが

全然分からない。






中学校の時にある友人にこの話をしたら、

「そうそう、小さい時ってそうだったよね」

と分かってくれたことがありました。




哲学的に言うなら、

他者という存在そのものがうまくインストールしきれていないということなのか。

俺は本当にその時の不思議さを鮮明に覚えているんです。

だから、

ドゥルーズが

他者がいなくなる、無人島に漂着すると、

世界を知覚している構造そのものが崩れてしまう

と言った時、

ものすごくそれが実感できたわけです。




ドゥルーズは実際には

この議論を展開するにあたって、

ミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』

という小説を発想源にしています。

これは簡単に言うと、

ロビンソンクルーソーを書き直した小説なんですね。

そうです、

無人島に漂着する話です。





だいぶ前に読んだだけで、

今回の対談のためにも読み直すべきだったんですけど、

本も見つからず。

いま調べたら、

少し前に話題になった、

池澤夏樹編集、河出書房の『世界文学全集』

に入っているんですね。

知らなかった。

単行本は長らく品切れでしたから。

フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-9)/ミシェル・トゥルニエ

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さて、

千葉君は

やや大きめの問題設定。

レヴィナスが言う

「存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ」



ドゥルーズを通じて問うことは可能か?

という問題を提示しました。

存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ/エマニュエル レヴィナス

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俺は、

無人島の話をしながら、

習慣の問題に言及し、こんなことを言いました。


 習慣がなければ人間は生きていけない。
 習慣がなければ、新しさの中に埋没して
 生きるという営みに集中できない。
 おそらく、
 棲まう(habiter)とは、
 習慣(habitude)と無関係ではないだろう。
 では、ドゥルーズの言う「棲まう」は
 ハイデッガーが言っていた「住む(wohnen)」と
 いかなる関係を結んでいるのか?



俺のこの問題提起を受けて、

千葉君は、

レヴィナスのハイデッガーを批判を取り上げました。

ハイデッガーは

「存在するseinとは、住むことwohnenである」

と言った。

対し、レヴィナスによれば、

住むこととは占領することである。

そこに住むことは、

そこに他の人が住む可能性を抹消することであるから。

ならば、

存在することは住むことであり、住むことは占領することになるだろう。

哲学が、

存在を問う学、存在論であるのならば、

それは批判されねばならない。

いや、

存在論を第一哲学とするのが間違っているのだ。

倫理学こそを我々は第一哲学とせねばならない…。

そこで、

「存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ」

というテーゼが出てくるわけです。






では、

経験論哲学に拘泥し、

習慣について論じ続けたドゥルーズ。

その哲学は

いかなる仕方でこのテーゼに答えられるだろうか?





非常に興味深い問いです。





俺も千葉君も

何らかの仕方でこの問いに取り組むことになるでしょう。

ここでは問題提起までにとどめておきます。