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民主主義を眺めるミネルヴァの梟(エッセイ再掲)

この前、8月12日

朝日新聞に

民主主義について俺が思うところを述べたインタビューが載りました。

その時の考察の出発点になっているのが、

次のエッセイです。

去年の夏に『文學界』に掲載していただいたものです。

インタビューではマイルドにするために

民主主義そのものへの疑問は述べませんでした。

「民主主義」と言うならこれぐらいのことはしないとダメだ

という口調で書きました。

このエッセイでは

そもそも民主主義でいいのか

という疑問を提示しています。

よかったらお読みください。

民主主義を眺めるミネルヴァの梟(『文學界』2010年9月号掲載)

國分功一郎

 ミネルヴァの梟は夕暮れ時に飛び立つ。

 ミネルヴァの梟が飛び立てば、夕暮れ時が訪れる。

 ミネルヴァの梟は飛び立った。夕暮れ時は既に訪れている。

 

 最近、出色のレーニン論『「物質」の蜂起をめざして』(作品社)を出版した白井聡氏と対談する機会を得た。同書に書かれていたのがこれら三つの命題である。

 ひとつ目はヘーゲルが『法哲学』に記した有名な言葉である。「ミネルヴァの梟」は知性を象徴する。それが夕暮れ時に飛び立つとは、事物はその最終形態にあるとき、終わりつつあるときに正確に認識されることを意味する。

 白井氏が引く藤田省三によれば、ヘーゲルを批判的に継承したマルクスの立場は、ふたつ目の命題のように表される。物事を終わらせる、夕暮れ時を訪れさせるためには、ミネルヴァの梟を飛び立たせればよい。つまり、事物の内的根拠が正確に認識されれば、その事物に終わりが訪れる。マルクスは『資本論』によって資本主義についての透徹した認識を示した。ならば、資本主義の夕暮れ時が訪れつつあるということになるだろう。

 そのことを真正面から受け取り、「ミネルヴァの梟は既に飛び立った、夕暮れ時は既に訪れている」と考えたのがレーニンであると白井氏は言う。レーニンによれば、革命は現実を破壊することとはやや異なる。マルクスによって資本主義の内的根拠は正確に把握された。だから、もはや資本主義は現実的なものではない。革命とは、したがって、もぬけの殻となった事物を押しつぶすことでしかない。

 これら三つの命題は大変示唆に富んでいる。とりわけ民主主義について考える上で大きな助けとなる。

 冷戦の終わりに際し、資本主義と民主主義の勝利が語られた。だが、おそらく世界中の多くの人が資本主義経済の問題点には気づいている。金融危機、格差社会、環境破壊。現今の経済体制がこのまま維持できるとは誰も思っていない。「革命」によって何かががらりと変わることはないだろう。だが、トービン税、フェアトレード、環境会計、セイフティーネットの拡充など、経済体制におけるオルタナティヴが模索されているし、この模索自体が何らかの変化を予感させている。

 他方、同じく勝利宣言を受けた民主主義については事情が異なる。民主主義と異なる政治体制を求める動きはほとんど見られない。そもそも、民主主義へのオルタナティヴを模索すること自体がタブー視されている。民主主義に疑いを差し挟むなら、全体主義者・ファシスト扱いされることも稀ではない。だが、民主主義という政治体制を人類の歴史の終着点として本当によいのだろうか? 政治家の汚職。世襲議員。討議しない議会。イメージに易々と流される有権者。実は誰もが民主主義への疑いを抱いてはいないだろうか? 

 民主主義の根幹には、自由な独立した個人が討議すれば「真理」にたどり着けるとの信仰がある。白井氏によれば、レーニンは討議という名のこの水平的コミュニケーションを疑っていた。ともあれ、討議に対する疑いをレーニンの名において提起すると、眉をひそめる人もいるだろう。彼が打ち立てた政治体制は後におぞましいものになっていったからだ。

 だが、水平的コミュニケーションへの信仰に疑いを差し挟むにはレーニンの名は必要ない。ルソーこそは近代民主主義の理念を打ち立てた哲学者の一人だが、彼は、市民のもつ「一般意志」による国家の運営を提唱しつつも、「市民は一般意志を理解していないことがある」とし、「立法者」なる謎めいた——ほとんど神のような——存在によって市民が指導される必要を説いていた。一般意志は立法者を必要とする。これはルソーが、水平的なコミュニケーションによる一般意志の探求に限界を見ていたこと、そこに何らかの垂直的なコミュニケーションを持ち込んでいたことを意味している。しかし我々は普段、ルソーのこの指摘に目をつぶり、水平的コミュニケーションを信仰しているかのように振る舞っている。

 さて、レーニンが考えたように資本主義がマルクスの『資本論』によってその内的根拠を隅々まで明らかにされたのであれば、民主主義についても同じことがなされねばならない。しかし、よく考えてみると、民主主義を論じる書物の中には『資本論』に相当するものがないのである。『資本論』に相当する書物が、政治学の領域で書かれねばならないだろう。

 『資本論』の原題はDas Kapitalであり、直訳すれば『資本』である。マルクスは近代の経済体制の分析を「資本」というタイトルで行った。ならば、いま書かれねばならぬ政治学の書物のタイトルは何か? マルクスは『資本論』を、「資本主義的生産様式が支配している社会の富は膨大な商品の集積としてあらわれる」と書き始めた。資本の分析は商品の分析から始められる。では、いま書かれねばならぬ政治学の書物において「商品」に相当するのは何か? これらの問いに我々がまだ明瞭に答えられないという事実こそ、民主主義への疑問が不明瞭であり続けていることの一因ではないだろうか?

 政治体制の分析においては、これからミネルヴァの梟を飛び立たせねばならない。おそらく時はまだ正午あたりである。