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生きていたスピノザ、明るい部屋、44才、孤独

さっき、ブログのタイトルの画像を変えました。

これは、オランダ滞在最後にいった

デンハーグのスピノザの家の前にあるスピノザの銅像の写真です。

この銅像

すばらしい出来だった。

俺は見入った。

スピノザって本当に生きてたんだ。

スピノザがこのあたりを歩いていたんだ。

ばかばかしく思われるかもしれませんが、

そんなことを本気で考えました。

もし彼に会いに行けたら

——「あの、デカルトが言ってる、実在性の度合いって考え、おかしくないですか?」

——「うん、コクブン君、確かに君の言うとおりだ。」

とか、本当に話できたんだ。

そんなことを考えて、硬直してしまいました。

博論でスピノザ哲学を扱い、

或る意味

イヤになるぐらい彼の本を読んだわけですが

それ故なのか、

そういう風に彼と本当に対話できたかもしれないということ(いや、これはあり得ない仮定なのだが)

それを考えると体が硬直したのです。

そして、

しばらくしてから

ロラン・バルトの『明るい部屋』の冒頭にある

ある話を思い出しました。

「ずいぶん昔のことになるが、ある日、私は、ナポレオンの末弟ジェロームの写真(一八五二年撮影)をたまたま見る機会に恵まれた。そのとき私は、ある驚きを感じてこう思った。《私がいま見ているのは、ナポレオン皇帝を眺めたその眼である》と。この驚きはその後も決して抑えることができなかった。私はその驚きのことをときどき人に話してみたが、しかし誰も驚いてはくれず、理解してさえくれないように思われたので、私自身も忘れてしまった(人生は、このように、小さな孤独の数々から成り立っているのだ)」。

(ロラン・バルト、『明るい部屋』、みすず書房、七ページ。)

ちょっと違うのかもしれません。

でも、

同じことを考えました。

あの人が本当に生きていて、動いていた。

あの銅像は想像力をものすごくかき立てた。

スピノザという人は結構引っ越ししている人です。

アムステルダム生まれですが

24才でユダヤ教会から破門をくらったあと

(諸説はありますが、おそらく)

「上等だ。私は教会に破門を解いてもらおうなどとは思わない」

という態度に出ます。

で、まず

ライデンの近くのリーンスブルフに引っ越す(1661年)。

その後

例のデンハーグの近くのフォールブルフに引っ越す(1663年)。

1665年、『エチカ』が完成間近だったのに、

それを中断して『神学政治論』を執筆開始。

1670年にそれを出版。

それが災い。

命まであやうい状況に。

そのためか

同年にデンハーグに引っ越ししてます。

フォールブルフは田舎でデンハーグはまぁ都会。

宗教がらみのことだと

都会の方が安全だと思ったのだろうと言われています。

この判断力は大変興味深い。

確かに

都会の方が自由かも知れない。

でもなかなかそういう判断で引っ越しってできませんよね。

あるいは近所づきあいで問題があったのか。

さて、スピノザはデンハーグに引っ越ししてから7年後に亡くなります。

1677年です。

あそこには7年しかいなかったんですね。

そしてその時、

スピノザは44才です。

若いね。

俺にとって44才は8年後。

こう考えると

スピノザは

32才で『神学政治論』を書こうと思い立ったのか。

俺はその時何をしていただろうかと思います。

さて

その後、

オランダ滞在の最終日に

アムステルダムで

ポルトガル系移民のシナゴーグというのにも行ってきました。

スピノザが破門をくらったシナゴーグです。

ですが、

正直、

これについては

なんかあまり言うことがないです。

スピノザが破門くらったときもこんな雰囲気だったんだろうなぁと

そんなことを思ったぐらいでした。

アイ・ラヴ・イスラエル

って書いたキーホルダーが売っていた。

なんとなく

バルトの「孤独」と

スピノザの「孤独」が

重なります。