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生きられた外傷

まえに内田樹の『ためらいの倫理学』について書いた。

その中の戦争責任についての文章「自虐史観と戦後責任論」が気になっている。

この文章は実に打ち出し方の難しい話をしている。

その難しさを内田氏は独特の雰囲気で乗り越えている。

打ち出し方が難しい話とは具体的には何か。

彼が高橋哲哉氏『戦後責任論』を読んで感じた違和感についてのものである。

歴史上の諸事実の「真相の究明」と、「アジア民衆との信頼の回復」とを、高橋氏はリンクさせているが、しかし、それは違うのではないかと内田氏は言うのである。

こういうことだ。

話はフロイトから始まる。

フロイトはヒステリー患者について幼児期の虐待経験がその原因であるという学説を発表した後に、患者たちのそうした告白の信憑性を疑うようになった。

彼らの外傷は事実ではなく幻想ではないか、と。

ところがフロイトは「なんだ事実じゃないのか」と放り出さない。

そうした幻想を患者が事実であるかのように生きてしまっていることが問題なのだと考えた。

記憶の強度とは、ある出来事そのものの強度ではなくて、出来事がその後の時間の中でもつ意味の強度であろう、と内田氏は言う。

ここから内田氏は非常にセンシティヴな問題に踏み込む。

「おのれの戦争責任や目撃証言を「カム・アウト」した人たちのなかには、おそらく自分が経験した事実ではないことを語っているひともいるはずである」(内田樹、『ためらいの倫理学』、角川文庫、52ページ)。

内田氏は、そして、我々には自分のものではない他者の経験をわがものとして引き受ける能力があり、これは人を欺すための能力ではなくて、我々が共同で生きるための重要な能力なのだ、と付け加える。

だから

「真相はどうなのだ」「証拠を見せろ」と絡む人たちは、「厳密性」の名の下に、聞き取るべきものを逃してしまっている。

「フロイトのヒステリー患者がそうであったように、そのような「外傷の物語」をリアルに生きてしまった人にとっては、「外傷」は現に激しく痛むのである」(同、52ページ)。

真相の究明は、外傷を癒すこととは別次元にある。

さて、内田氏は、戦争責任について語る高橋氏が何か検察官のような趣であると言うのである。

真相究明によって「邪悪なるものと無垢の被害者の物語」を作り上げることを目指す検察官であるかのようだ、と。

真相究明——すなわち過去志向の仕事——が重要なのはもちろんそうだが、それと、未来志向の「信の回復」は別のものであるし、後者は検察官的なものではあり得ないのではないか、と。

——俺はなるほどと思った。

まず言っておくと、「検察官」的な仕事は絶対に必要である。

そして、高橋氏の「検察官」的能力はすごい。

高橋氏を非難する人はけっこういるけれど、はっきり言って、「検察官」をやっている時の彼に勝てるひとなどは滅多にいない。

前にここで紹介した『靖国問題』という本はその能力が遺憾なく発揮されたものである。

だが、内田氏の言うとおりである。

検察官の仕事は信の回復とは別だ。

これも言っておくが、高橋氏が未来志向の信の回復を目指しているし、目指していないわけがない。

だが、何か力点が違うのではないかと内田氏はいつものように違和感を感じたのである。

この違和感を表明するのは難しい。

左からは「真相の究明」をどう思っているのかと言われるだろうし

右からは「お前は嘘つきを認めるのか」と言われるだろうから。

しかし、こういう違和感を保持するところからしか思考は生まれない。

すこし違う話なのだが、思い出したので書いておく。

昔、雑誌『現代思想』の特集「甦るギリシャ」(1999年8月号、青土社)で、田崎英明がプラトン研究者の藤沢令夫との対談でとても印象的なことを言っていた。

ナチ強制収容所でのガス室の存在を否定する歴史修正主義に対する批判が、プリモ・レヴィらのギリシャ哲学研究者たちによって行われていることが非常に重要である。

「誰もガス室を見ていない」という修正主義の主張に対する批判と、目の前に見えるもの以外すべてを否定するソフィストたちを論駁するというプラトンの課題には共通性があるのではないか。

ここでは問題になっているのは、ガス室があったかどうかという真相の究明の話であるから少し話は違う。

だが、内田氏が言うような信の回復の仕事は、「目の前に見えるもの以外すべてを否定する」態度では絶対になし得ないものである。

なぜなら実際には存在しなかった事実であろうとも、それが生きられている以上、その生きられているという〝事実〟に目を向けることから話を始めねばならないと言っているのだから。

確かにフロイトが言うとおり、ヒステリー患者にとっては、ある外傷の物語が生きられているということが重要なのであって、その外傷が実際にあったかどうかはさして重要ではないのだ。

こんな風に、今日、フロイトのことを考えていたら、

俺が月報文を書いた『フロイト全集』第19巻が岩波書店から届いた。

フロイトの精神分析理論はもっぱら患者の治療のための理論であるのか?

そんな問題を論じています。

次のエントリーで紹介したものです。

http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10556848894.html