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知性の最高の状態——内田樹『最終講義』(技術評論社)

昨日は久しぶりにブログを更新した。

原発に関するもの。

原発についてはもう考えざるを得ないし、

毎日考えているし、いろいろ調べてもいる。

けれど、

それについて意見するのは

本当にイヤになる。

なぜかというと、

あらかじめ反論を見込んだ上で

反論に答えられるということを第一に考えて議論を組み立てなければならないからである。

つまり、

何か真理を目指すというよりも、

議論で「勝つ」ことを目指さなければならないからである。

議論で「勝つ」というのはくだらないことである。

そして

「勝つ」ために知識を蓄え、議論を組み立てていくのも

くだらないことである。

学問というのは真理の探究であると

俺は堅く信じている。

真理の探究は「勝つ」ためになされるのではない。

「勝つ」ために真理が探究されたとき、

つまり、

相手を説得し、説き伏せようとして真理が探究されたとき

真理の探究はゆがむ。

スピノザの哲学は説得を目指さない——

このテーゼを提示した俺の『スピノザの方法』が述べているのも

そういうことである。

しかし、そうはいっても、

「負ける」わけにはいかない場合もあって、

しかたなく、

そういうこともしなければならない。

イヤだけど。

最近

内田樹氏の『最終講義』(技術評論社)という本を読んだ。

とてもおもしろかった。

内田氏は真っ当なことを言う。

これが大切である。

本の中で

とある日本の学会の堕落ぶりが紹介されている。

その学会で発表する大学院生たちは、

何も背負っていない。

ただ、

自分の業績を評価してもらいたいという気持ちだけをもって、

論文を査読するひとたちや業績に点数を付けるひとたちに向かってしゃべっている、と。

すごくよく分かる。

俺はあまり学会活動をしていないし、

その学会のことも何も知らないのだけれど、

要するに彼らの頭の中にあるのは

アカデミックポストを得て就職するための点数稼ぎだけなのだろう。

そのために「研究」したり発表したりというのは

いったいどこが真理の探究だろうか。

しかも実はそれ以上の問題がある。

内田氏はこんなことをいっている。

「さっき僕は、研究者は「何かを背負っている」必要があると申し上げました」。「フロントラインに立つ」というのは、自分の背後に何かを感じるということです。自分が前線を前に押し出す力を感じるということです。それは自分自身の業界内的な格付けを上げるとか、業績を評価されてテニュアを獲得するとか、著書が売れるとか、学会賞をもらうとか、そういう個人的なことじゃないんです。別にそれが倫理的にいけないという意味ではないんです。自己利益を動機にして研究していると、「頭の回転数」がある程度以上は上がらないから、それじゃダメだと言っているんです」(p.61)。

この感覚が俺はよく分かる。

よく金は天下の回り物というが、

知識も同じで、

知識も天下の回り物である。

「こんなおもしろいことがある、

こんなすごいことがある、

だから俺の話を聞いてくれ!」

って態度で研究したり、執筆したりしていると、

どんどん頭が回転してくる。

けちくさく、ひとつのアイディアに固執するなんてことは考えなくなる。

どんどんひらめく。

これはいわば、

俺の言う「スピノザの方法」が実現された状態だ。

観念がうまく連結し、

知性が自動運動をし始める状態。

こういう状態を内田氏は「知性の身体性」とか「アカデミック・ハイ」といった言葉で説明しようとしている。

例えば彼はこうも述べている。

「自分の知性が最高の状態にないことに、空腹や眠気や渇きと同じような激しい欠落感を覚える人間だけが、知性を高いレベルに維持できる。/でも、知性を使って、世俗的な価値を手に入れることを目的とする人たちにとって、彼らの「頭のよさ」は単なる道具に過ぎません」(p.71)。

内田氏は

この知性の最高の状態を手に入れるために

「技術的な視点」から考察するひとがほとんどいないことを驚いている。

この場合「技術的な視点」とはどういうことかというと、

どういう状態で生きていれば、

自分が知性の最高の状態にしばしば到達できるのか、

その術を考えるということである。

内田氏は、そのための彼なりの「技術」を持っている。

実は彼のこの「技術」が俺のそれと酷似しているというか

全く同じだったので、

大変おどろいた。

それはどういうものかというと、

平凡な暮らしを維持できるように

全力で努力するというものである。

「「アカデミック・ハイ」がまた経験したいから、僕はとりあえずよく寝て、健康管理に気づかって、同僚と仲良くして、家族をいたわって……という平凡な暮らしを全力で維持しているわけです。僕がルーティン大好き人間であるのは、ルーティンそのものが好きだからじゃないんです。そうじゃなくて、ルーティンを守って暮らしていかないと、絶対に「アカデミック・ハイ」は訪れてこないということがわかっているからなんです」(p.68)。

そうそう!

そうなんだよなぁ!

これ、俺も友人に話ししたことがあって、その時大笑いされたんだけど、

ちょっともめ事とかあると、

もう頭がまわらない。

だから、ものすごい努力して

一定の生活を維持できるようにしている。

この辺りは多分、人によっても違いはあるだろうと思う。

だけど大切なのは、

知性の最高の状態をしばしば体験するための「技術」を

ひとりひとりがうまく発見していくことだろう。

というのも、

内田氏も強く批判しているように、

今の時代、

知性を向上させるための手立てとして人が思いつくのは

「人参と鞭」だけだからである。

「よく勉強した子には「人参」を与え、怠るものには「鞭」を食らわせる」(p.69)。

そんなんで知性の性能が高まるわけない。

今はやりの「競争」で何でも片付けようとする人たちも

だいたいこのタイプ。

で、

この点について

内田氏に俺なりの考えで伝えたいことがある。

内田氏は自らが勤めていたキャンパスや校舎のすばらしさをこの本で論じている。

それについての、とあるエピソード。

大学の財政再建が問題になったとき、

大学があるシンクタンクに再建案を依頼したのだという。

するとそこの調査員が

築六十年の建物なんで無価値。維持費に金がかかるだけ。こんな建物を持っているのはドブにお金を捨てるようなこと

と言い出したらしい(p.21)。

内田氏は当然反発。

なぜこんなすばらしいキャンパスや建物を売り払わなければならないのか。

こいつらはキャンパスや校舎の価値を地価や耐用年数といった数値でしか評価できない。

自分はこのときに市場原理主義はダメだと実感した、と。

しかし、

彼はそのことをその調査員にうまく説明することができなかったらしい。

そしてそのことでとても悔しい思いをしたらしい。

さて、

どうやって説明したらよかったのだろうか?

俺は自分が市場原理主義や、その根本原理である「競争」といったものについて

ずっと考えていたことを思い出した。

よく市場原理主義や競争を批判するときに、

そういう考えには

優しさがない

とか

人間らしさがない

とか

暖かみがない

とか

切り捨てである

とか

数値では測れないものがある

とか

そういった批判が出される。

これらの批判は間違いではない。

しかし、

俺がその調査員だったら、

全然納得しないだろう。

そもそも、

そういうことは分かった上で市場原理主義や競争が必要だと思い

そう述べているのだから。

そしてそれだけではない。

こうした批判は

市場原理主義や競争、更には先ほどの「人参と鞭」といった考えの本質的な問題点に

届いていない。

それらの本質的な問題点とは何か?

簡単である。

市場原理主義や競争、「人参と鞭」といった考えの問題点とは

それらを高く掲げる人たちが

とても少量の情報しか処理していないということである。

現実は複雑である。

極めて大量の情報を処理しなければ

現実に迫ることはできない。

しかし彼らは

おそらく頭の回転数が遅いのだろう。

あるいは

たくさんのことを考えると

「そんなにたくさんのことをいっぺんに考えられないよ!」

と癇癪を起こしてしまうのだろう。

だから

自分たちの知性で処理できる

ごく少量の情報だけを取り扱おうとする。

たとえば地価や耐用年数といった数値だけを。

つまり、

市場原理主義や競争、「人参と鞭」といった考えを高く掲げる人たちは

冷たいのでも、暖かみを欠いているのでもなくて、

自分たちの情報処理能力の低さ故に

ごく少量の情報だけに固執しているのである。

つまり、

彼らは少しも合理的ではない。

なぜなら、現実の複雑さをできる限り複雑なままに処理することができなければ

合理的な結論は導けないからである。

たとえば、

内田氏は

こういう建物で勉強すると落ち着くとか、話がしやすいとか、知的な高揚感を覚えるとか、

そういった事例を挙げている。

これらは間違いなく

キャンパスや建物、そして財政再建を考える上で処理項目に上げなければならない情報の一端である。

環境が人に与える影響は

既に膨大に研究されている。

そして好環境が整えば、

その大学の学生は伸びる。

大学も伸びる。

これは財政再建にもよい影響を与える。

これだけではない。

内田氏が本でこの大学のキャンパスや建物のすばらしさを訴えることが出来て、

しかもそれは売れているわけだから(!)、

大学の宣伝になる。

おそらくは

もっともっと多くのことを考えねばならないだろう。

要するに一言で言えば

市場原理主義や競争、「人参と鞭」といった考えに固執する人間は

冷たいのではなくて、

情報処理能力が低いのである。

CPUの数値が低いのである。

メモリーが少ないのである。

少しも合理的ではないのである。

市場原理主義や競争、「人参と鞭」といった考えが幅をきかせているのは

社会が

そうした情報処理能力の低い人向けになってきていることを示している。

そしてその中で人は

知性の最高の状態を体験することができなくなっている。

それを体験できないから、

社会の方ではそれを先取りして、

市場原理主義や競争、「人参と鞭」といった考えを前景化するようになる。

こういう悪循環が起こっている。

だから内田氏はその調査員たちに

「君たちは考えていることの量が少なすぎるな。勉強も、知的訓練も足りないな。」

と言えばよかったのである。

人間の知性はとんでもなく発達している。

我々はまだ知性が何を為しうるのかを十分に知らない。

(これはスピノザが考えていたこと)。

だから、みんなの情報処理能力をどんどん低めるようなことはやめていこう。

もっともっとたくさんのことを一度に考えよう。

実際、我々はものすごいたくさんの量の情報を一度に考えている。

単に日常生活を平々凡々に生きていくだけで、どれほどの量の情報を処理しなければならないことか。

だからこそ、

内田氏も

そして俺も、

その平々凡々な生活を維持するために

途方もない努力を強いられているのだ。