プレビューモード

社会の余白、夜自転車で散歩する自由、フーコー

授業でフーコーをやってます。

今は

『監獄の誕生』

について解説しているのですが、

まぁ有名ですけど、

冒頭部分、

ダミヤンの処刑シーンは

スプラッター映画の凄惨シーンを思い起こさせる

すさまじい叙述ですね。

やっとこで懲らしめて

そこに溶かした鉛とかを流し込み、

馬で引っ張って

四つ裂きにするとか…

これが哲学の本なのか!

しかもいきなり最初があのシーンですから。

さて、

この本の中、

第二部で出てくる話なんですけど、

十八世紀後半、

資本主義の進展にともない、

富の蓄積が急激に進み、

治安に対する意識が高まる。

その中で、

そうした残酷刑は減っていく。

十九世紀のはじめには完全に姿を消す。

だが、

それと平行して

犯罪の取り締まりは厳しくなり、

検挙数は増加の一途。

要するに、

それまで見逃されていた悪さが

見逃されないようになっていったということです。

フーコーの基本的な考え方として、

近代——と言ったらまずいのか? 十九世紀以降?——

になると、

社会の中の余白部分がなくなっていく

というのがありますね。

『狂気の歴史』なんかもそうですし、

『性の歴史』第一巻なんかも、

基本的にそういう考えです。

まぁそんぐらいは見逃してやるか

という君主的権力。

見逃してもらってるから、君主様の横暴も多少目をつぶるか

という民衆。

両者のなれ合いで動いていた君主的権力構造、

まさしく先に紹介したダミヤンの残酷処刑ショーなんかをやってたタイプの権力構造が、

だんだん衰えていき、

社会が透明になっていくというか、

いろいろなものが監視されるようになっていく、と。

これはフーコーのことをちょっと知っている人なら誰でも知っていることだと思います。

フーコーはいつもこうした変化が十八世紀と十九世紀の間に起こったと

いろんな例を使って強調するわけですね。

余白部分がなくなっていった。

それで思い出した話を授業中にしたんですね。

数年前ですけど、

むしゃくしゃしたことがあって、

夜中、

自転車で走っていた俺。

ただ自転車で走っていたのに、

警官に呼び止められる。

(はぁ?)

「この自転車は防犯登録証が貼ってないな。」

「古い自転車なんで」と答える俺。

「中学生の時から乗っているんです。」

(俺はものを大事にするんだ! これは中学時代からの愛車、ブリジストンのレイダックなんだよ!)

「ちょっと調べますんで。」

(って、何を調べるんだ?)

押し問答。

自転車に貼りっぱなしの

平成8年だったかの日付の駐輪場のシールに注意を促し、

自動車免許証の本籍地との一致を強調。

「あのころは防犯登録は義務じゃなかったでしょ?」

やっと解放。

しかし、

当然、

一言の謝罪もなし。

まぁ仕事なんだろうけど。

それにしても、

夜自転車で走っているだけで呼び止められるとか、

おかしいですから。

この話を授業で熱弁。

すると最後に書いてもらう学生の感想文に

「自分も呼び止められた」「最近はほんとうにうるさい」「自分は最高で一晩に五回も警官に呼び止められたことがある」

とか、

たくさん書いてありました。

自転車で夜自由に走り回るという権利も制限されつつあるわけですね。

まさしく、

余白部分が減らされてきている。

こう考えると、

フーコーが言っていた余白の現象は

決して一度きりのことではなくて、

何度も反復されていることなんだと分かります。

野良犬なんかも、

昔はいましたよね。

いまは全然見ない。

犬は町中を自由に歩く権利を奪われ、

保健所で殺されているわけです。

あと、

こんな話も思い出した。

どこかで宮代真司がこんなことを言っていた。

むかしは学校の中に余白があった。

たとえば

階段の踊り場とか

屋上とか。

そういったところで

子どもたちは自由に語りあり、けんかし、時に告白していた。

(確かに、学園ドラマだと告白シーンは必ず屋上だった)。

でも

いつしか、

危ないからとか

踊り場に人がいると邪魔だとか

そういった理由でそうした余白がつぶされていった。

自分たちの場所を追い出された若者たちは

渋谷に行って

道路に座り込んだ。

まぁ、

なんとなく分かりますよね。

大学院の時の研究室があった

駒場の八号館も

俺が入った年は屋上に行けたんだけど、

すぐに禁止になったなぁ。

まあ、

こういう例はたくさん挙げられるだろうと思います。

でも、

そうするとちょっと疑問が出てくるんですね。

フーコーの言うように余白が切り詰められているとして、

それが十八世紀末ぐらいから始まったとして、

ずっと切り詰め切り詰めして、

そんなに切り詰める余白って

もともとあったんだろうか?

いくらなんでも、

いつか限界が来るような気がするのですが。

みなさん、どう思われますか?

そんなに昔は余白がたくさんあったのかなぁ。

なんか疑問。

これはこの前の

フーコーを読んでいると「近代は最悪」って気持ちになる

って話につながる疑問。

なんか、

昔はよかったって

そういう気になってしまうけど、

本当にそうなんでしょうか?

かつて余白があって、

それが切り詰められ続けているんでしょうか?

そんなに余白があったのか?

どうも違う気がするなぁ。

「昔はよかった」「近代は最悪」

このイメージについて

もっとフーコーの言っていることを

精査する必要があると思います。

話のレベルがいきなり下がるけど、

昭和三〇年代を理想化する映画とかありましたが、

ああいうのを見て感激できる感性がまったく理解できない。

俺は

昭和三〇年代とか

絶対イヤです。

っていうか、

俺は生き残れなかっただろうと思う。