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空気読む、抽象性、折衝、ジョジョ、あとちょっと

友人のルイ君がmixiで俺のブログを紹介してくれてました。

曰く

まぁ、いいこと言ってるかもしれんけど、

いまみんなの関心はサッカーなんだよ!

と。

空気読め!

と。

確かにそうですね…。

まぁ、しかしですね、ニーチェという哲学者が『反時代的考察』という本を書いているんですけど、

あれは、かっこよく訳すから「反時代的」なんてなっているだけで、

「時代遅れ」って意味ですので、

『空気読めてない考察』

って感じですよ。

で、

俺のブログは哲学ブログだからそれでいいかな、と。

自分ではいつもけっこう空気読んでいるつもりなんですが…。

マイケル・サンデルという哲学者の授業がNHKで放送されているそうです。

で、やっと最近になって知りました。

いまごろになって話題にしてるなよって感じです…。

でも、みたいなぁと思い、Youtubeで探す。

見つかったんだけど、全然見れない。

人気あるからみんなあれで見てるのか。

で、仕方なく検索してみたら、内容紹介をしているサイトがあったので、少し読んでみました。

おもしろそうですね。

ただ、

授業の最初に出てくるという「1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか」という例ですね、

ああいう〝抽象的〟な話からはじめる議論は苦手です。

あれは具体的な例だと思われるかもしれませんが、逆です。

たとえばこう考えると分かりやすいでしょう。

サンデルはこういう例を挙げている。

「あなたは時速100kmのスピードで走っている車を運転しているが、ブレーキが壊れていることに気付きました。前方には5人の人がいて、このまま直進すれば間違いなく5人とも亡くなります。横道にそれれば1人の労働者を巻き添えにするだけですむ。あなたならどうしますか?」

これは一見すると具体的に思えます。

ですが、この仮定だけで小説や映画が作れるか?

つくれません。

ものすごい数の要素をここに付け加えていかなければならない。

いつ、どんなときに、だれが……現実というのはすべて、取り替え不可能な特異的な要素によってできています。

そういう要素をすべて抽象することで得られたのが、ここにある例です。

したがって抽象的な例です。

サンデルが最終的に、ロールズを批判しながらカントなんかを使って言っていることはとてもおもしろそうです。

俺はそれには特に反論はない(論文だったら反論するかもしれないが)。

単に、サンデルように、〝抽象的〟な例からはじめるのは苦手ということです。

ああいう抽象的な例を出されると、ものすごく胸を圧迫されているような、イヤな気持ちになる。

先進国の人間は、発展途上国の人々の文化を結果として破壊することになっても、その人たちに経済的援助をすべきか……という学部生のときに悩まされていた、あの〝抽象的〟な問いを思い出します。

こういう話がでるといつも思い出すことがあります。

ドゥルーズが、フランスのスカーフ事件について述べていたことです。

(因みにこのことは次の本のp.59~60に載っている俺の文章でも書いたことなので、詳しくはそちらを参照してください。

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スカーフ事件というのは、公的機関はすべて非宗教というフランス共和国の原則に基づいて、フランス政府が、スカーフを頭に巻いたムスリム(「イスラム教徒」)の女子生徒が学校に登校するのを禁止した事件です。

まぁ、普遍主義か多文化主義かどっちにするのかというような議論が盛んに行われたわけです。

フランス政府は普遍主義であるわけですね。

ドゥルーズは非宗教という原則には賛成します。

その上で次のように言います。

非宗教の原則に反対する親たちの圧力は各個にずいぶんと異なるものである。少女たちののスカーフをかぶりたいという願いはそうした圧力によって強化されているように思われる。少女たちが、このことにそこまでこだわっているのかどうかははっきりとは分からない。

普遍か多文化かという原則の問題ではなくて、家庭での圧力のことを考えるべきではないかというわけです。

でも、ここでも終わらない。

ここで終わったら、「少女たちは欺されている」と言ってムスリムを非難する人たちとあんまり変わりません。

ドゥルーズは、ここで、イスラムの権利を主張する教会の数々が、何をどこまで求めてくるのかを知る必要があると言います。

学校で祈祷することも求めるのか。

反イスラム的なフランス文学の古典の禁止まで求めるのか。

イスラムを認める認めないとか、原則論で一気に最後の結論に行ってそれを実行するのではなくて、

個々の事例をあくまでも具体的に分析し、折衝する(pourparler)というのがドゥルーズの提案。

非常に現実的な提案だと思います。

俺等は社会のことを考えるといつも原則論に捉えられてしまう。

これは哲学で言えば、大陸哲学的な考えですね。

ドゥルーズという人は大陸哲学のど真ん中で自己形成しながら、それと対立するイギリス経験論の伝統に強く惹かれたひとです。

この提案は実に経験論的ですね。

経験論のことをよく知らないひとは、イギリスの憲法について思い起こせばいいと思います。

イギリスの憲法は不文憲法といって、法典の形になってませんね。

経験論とはいわば、法典のようなものを抜きにして考えていく立場です。

しかし、原則がないわけじゃない。

文になってないけど慣習によって積み重なってきた原則があるわけです。

ドゥルーズはそうしたものを土台にして、実際に状況を分析し、折衝するという立場であるようです。

俺は非常に現実的な柔軟性を感じます。

折衝(Pourparler)という語は、ドゥルーズの本のタイトルにもなっています(邦訳タイトルは『記号と事件』)。

まぁ、この言葉が好きだったんでしょうね。

因みに、

『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』って映画がありましたね。

あの映画で、誰かが殺されそうになった時に、そいつがが〝折衝〟を求めるという場面があります(場面設定については記憶は曖昧)。

海の男たちのルールだと折衝の要求はどうしても聞き入れねばならないらしく、「うー、クソー」って言いながらしぶしぶ折衝を認める。

あそこで、"Pourparler!"って言ってます。

「プールパルレイ!」って感じでしゃべってた。英語の中にはいったフランス語単語なんでしょうね。

辞書には「非公式予備会談」ってあるけど、まぁ、折衝の方が分かりやすいな。

折衝を重んじるドゥルーズの立場も分かりやすい。

サンデルの例に戻りますけど、

『ジョジョの奇妙な冒険』でこんな話がありましたね。

ナチの将校のシュトロハイムが、人質たちに対し、

「お前たちの中から一人だけ犠牲になる者を選べ」

と言う。

勇気ある少年が、

「俺がその役になる。みんなを助けてくれ」

と言う。

で、シュトロハイムがそれに答えて、

「我々ナチはお前のような勇気あるものを大切にする。おい〔部下に向かって〕、この少年以外の全員を処刑しろ。」

サンデルはもしかしたら結論部ではそういうことを言うのかも知れませんが、ああいう抽象的な例だと、ある行為の結果があらかじめ分かっているような印象が与えられます。

しかし、そんなことはないわけです。

前にカントの嘘論文の話をしました。

http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10572258481.html

命を狙われている人が助けを求めてきたのでかくまった。

その人の命を狙う人がやってきて、そいつがいないかと聞く。

カントは、その場合も嘘をついて、「そんな人はいない」と言うべきではないと述べる。

カントがそれを説明して最初に言ったのが、この、行為が結果として何をもたらすかは分からないということでした。

もしかくまっていたその人が怖くなって家の裏口から逃げ出していて、私が嘘をついたがために殺人者が家に入らず、家の外で二人が出くわすということもあり得るとカントは言ってました。

現実というのはそういうものですね。

あと数十分で35才が終わる、そんなときにこんなことをしたためる。