プレビューモード

翻訳文化論——バベルの塔

前のエントリーで書いた「翻訳文化論」って授業ですが、

なんかいろいろ思い出しました。

デリダが「バベルの塔」(『他者の言語』所収)で言っているヤコブソン批判の話から始めたんですよね。

いやぁ、一回目から飛ばしすぎですね。

若かったってことだろうか。

しかし、認めたくないものです、己自身の若さ故のあやまちというものは。

 

他者の言語―デリダの日本講演 (叢書・ウニベルシタス)/ジャック デリダ

¥4,725

Amazon.co.jp

その一回目、ちょっと紹介します。

有名な話ですが、ヤコブソンは『一般言語学』の中で、三つの翻訳を区別してます。

1)言語内翻訳、すなわち、言い換えrewordingは、言葉の記号を同じ言語の他の記号で解釈することである。

2)言語間翻訳、すなわち、本来の翻訳translationは、言葉の記号を他の言語で解釈することである。

3)記号間翻訳intersemiotic、すなわち、移し換えtransmutationは、言葉の記号を言葉でない記号体系の記号によって解釈することである。

デリダは、ここに茶々を入れます。

どういうことかと言うと、

ヤコブソンは翻訳について語る時、

一つの言語の統一性・同一性が究極的には分かっている

と前提しているけどそれはどうなんだというものです。

そこでは、「一つの言語の一体性〔unité〕と同一性〔identité〕、言語の様々な境界線がもつ決定可能な形態を厳密にどう規定するべきか、それが最終的に分かっているということ」が前提されている(『他者の言語』p.12)。

要するに、何々語という言語と他の言語との境目を明確に規定できると前提している。

だから、言語内翻訳とか、言語間翻訳などと言えるのだ。

というのも、境目がはっきりしていなければ、「…内」とも「…間」とも言えないからですね。

で、デリダはそこを疑うわけです。

一言語の境目というのは前提できるものなのか?

このデリダの文章は、原題を"Des tours de Babel"と言います。

「バベルの塔」は、旧約聖書の創世記に出てくる話ですね。

天空に届こうとして、ノアの子孫が塔を作る。天空に届こうなどという思い上がりに神が怒りを覚え、それまでは一つしかなかった言語を複数に分裂させたという話です。

つまり、ユダヤ=キリスト教文化圏においては、翻訳が問題になる事態が生じたのはバベルの塔のせいであるということになるわけで、だからあの授業で最初にこれを取り上げたのでした。

神話に現れる塔は一つ。だから、普通は単数の定冠詞をつけてLa tour de Babelと言う。

ところがデリダは、複数の不定冠詞をつけてDes tours de Babelと書いている(邦訳では、このデリダの奇妙な書き方は無視)。

La tour de Babel、すなわち、単数の定冠詞のついた「バベルの塔」は、固有名詞。

対し、Des tours de Babel、すなわち、複数の不定冠詞のついた「バベルの塔」は、普通名詞。

するとデリダは、一つしかない、起源にある神話の話をしながらも、それを、いくつもある、そこらじゅうにある「バベルの塔」として一般化しようとしていると考えられるわけです。

じゃあ、それはどういうことなのか。

このデリダの文章、

「バベル、それは何よりもまず一つの固有名詞である。それは認めましょう〔Babel : un nom propre d’abord, soit.〕」

という言い回しで始まります。

バベルが固有名詞であることを認める、というか、それが一般に固有名詞として認められていることを認めるところから始める。

そしてデリダはすぐにそれを疑問に付す。

第二文は次のようになってます。

「では、我々は今日バベルと言う時、自分たちがいったい何を名指しているのか分かっているのだろうか?」。

実証的な事実を確認しておくと、「バベル」は、現在のイラク中部、バグダッドの南九〇キロのところにあるバビロンという都市のヘブライ語での呼び名。

で、

ここが最高におもしろいところなんですが、

ヘブライ語のBabelは、Bab‐ili【バーブ・イル】と分解されて、「神の門」を意味するのだそうですが、

ヘブライ語を話す人には、

それがBalal【バーラル】という語に聞こえるのだそうです。

で、このBalal【バーラル】は、「乱す」とか「混乱」を意味する。

旧約聖書は、この言葉遊び(?)を使って、バベルの塔の神話を描いている。

どういうことかというと、

バベルの塔の神話は、この都市がなぜバベルと呼ばれるようになったのかを説明するものなんですね。

人間が天空に届く塔を建設しようとしているのを見て、神が「バベル」と叫び、この町を名付ける。

そして言語の混乱が訪れる。

で、この「バベル」という叫びは、『創世記』の言語を話す人々には「混乱」と聞こえる。

つまり、

神の叫びは「バベル!」であると同時に「混乱を!」である。

ちょっとふざけた言い方をすると、

この「混乱」は、諸言語の混乱であると同時に、「バベル」と「混乱」の混乱でもあるわけです。

先ほどのデリダによるヤコブソン批判はこの文脈で現れるます。

「バベル」が「混乱」に聞こえるという事態、「バベル」という語と「混乱」という語の混乱は、ヤコブソンの言うところの言語内翻訳なのだろうか?

そうじゃない、とデリダは言います。

デリダの言うとおりですね。

「混乱」はバベルを言い換えたものではありません。

バベルを説明したものでもありません。

この「バベル」という叫び、「バベル」という語が陥っている事態は、より複雑です。

『創世記』の言語を話す人々にとって、「バベル」が「混乱」と混ざり合い、混乱し、識別できなくなるということは、どういうことか。

デリダが最初に言っていた通り、「バベル」は固有名詞です。

ですが、『創世記』の言語を話す人々にとっては、固有名詞であると同時に、「混乱」という一般名詞でもある。

デリダは最初ためらいがちに「バベルが固有名詞であることは認めよう」と述べていましたが、それはこのためです。

「バベル」は固有名詞であるだけではない。それは同時に一般名詞である。

そして、こういっては或る意味で安易かもしれませんが、

このようなフレーズは翻訳不可能です。

デリダが引用している仏訳者のシュラキは、並置と大文字というのを使ってこんな風に翻訳しています。

« Bavel, Confusion... »

でもこれは、説明とか言い換えではあっても、翻訳ではないわけです。

日本語にはルビという便利なものがあります。

岩波文庫に入っている『創世記』の関根正雄訳は

それをフル活用し、

町の名を「バベル」とは訳さず、「乱れ」と訳し、その上でそこに「バベル」というルビを振っています。

この関根訳は「バベル」が固有名詞であり且つ一般名詞であるという事態を我々に明確に説明してくれているすぐれた翻訳です。

だいぶ長くなって来ちゃったんですが、

もうちょっと。

「バベル」は翻訳不可能である。

では、翻訳不可能なのは「バベル」だけか?

「バベル」のような語だけなのか?

デリダも強調するように、固有名詞というのはそもそも翻訳不可能ですね。

というか、固有名詞は一つの言語に属しているわけではない。

例えば、俺の名前、「こくぶんこういちろう」は日本語に属していると言えるか。

日本語に属しているのだとしたら、それを英語に翻訳するとどうなるのか?

これはおかしな問い。

固有名詞は固有名詞でしかない。

ここでバベルの例に戻りましょう。

「バベル」は、『創世記』の言語を話す人々にとっては、固有名詞として受け取られると同時に、一般名詞、すなわち「混乱」としても受け取られる。

これについてデリダは非常に重要な指摘をしています。

この状況においては、

「混乱」の方も、

一般名詞として受け取られると同時に、

固有名詞としても受け取られるということです。

バベルという町の名を「乱れ」と訳した関根氏の翻訳のことを考えてみればこのことも想像できる。

この言語では「乱れ」という語が「バベル」と不可分であるわけです。

『創世記』の言語を話す人々にとっては、「混乱」という語を口にすると、それは常に「バベル」として受け取られる可能性がある。

すると、一般名詞「混乱」あるいは「乱れ」も翻訳不可能だということになる。

『創世記』の言語においては「混乱」Balalももしかしたら固有名詞かもしれないということになる。

で、ここからは

デリダがはっきりとは述べていることではないんですが、

これはおそらく次のようなことを示唆している。

もしかしたら、

こうした事態はあらゆる一般名詞にいえるんではないか?

もしかしたら、

我々が話している語のすべてが「バベル」のような語なんじゃないか?

つまり、

一般名詞であり且つ固有名詞なんじゃないか?

デリダははっきりとそういうことを言っているわけではありませんが、

これは「バベルの塔」というタイトルが

Des tours de Babelと複数形で書かれていた時に既に示唆されていたことであるわけです。

「バベルの塔」のようなことは、一般的に、あちこちで起こっているんじゃないか。

だから複数形。

では、

もしあらゆる語が固有名詞であったなら、

どうなるか?

固有名詞は翻訳できないのでした。

なぜならいかなる言語にも属していないから。

じゃあ、

すべての語がそうだったら?

一言語の一体性、つまり言語間の境目というものがなくなってしまう。

なぜか?

或る言語と或る言語を区別できるのは、

たとえば、同じ牛を意味する語でも

oxは英語に、boeufはフランス語に属する

と言えるからです。

言い換えれば、

ある語とある語とのあいだに翻訳可能性が想定されているから

二つの言語が区別できる。

そして、

そうした事態がすべての語に対して想定されているから、

ある語の総体が英語とか、別の語の総体がフランス語とか言われる。

言語の区別というのは翻訳を前提しているわけです。

ところが、

すべての語が翻訳不可能な「バベル」のような性格を有しているとしたら、

そのような言語の区別、一言語の一体性を前提できなくなる。

すべての語が

固有名詞として

いかなる境界線も前提せずに

ただ浮遊しているような

そういう言語空間が現れることになる。

…………。

この手の話、久しぶりです。

やっぱ、

デリダおもしろいですね。