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翻訳文化論——牛について

前回の続きです。

翻訳が可能であるためには、何か同じものが、二つの言語において、二つの別の名前で呼ばれていることが必要です。

たとえば、牛のことを、フランス語でbœuf、英語でoxと言う。

牛という〝同じもの〟が、こうして二つの言語において、二つの別の名前で呼ばれているから、bœufによるoxの翻訳、oxによるbœufの翻訳が可能である。

でも、これは逆に言えば、

両者が翻訳されるから、両者がそれぞれ別の言語に属しているということになります。

Bœufがフランス語に属し、oxが英語に属していると言えるのは、両者が何か同じものを指していると前提されているから、そして翻訳されるからです。

もしoxとbœufが何か同じものを指していると前提できなかったら、それらの語は、単に二つの単語として並ぶだけです。

たとえば、dogとoxが並ぶように、

oxとbœufが並ぶことになる。

つまり、二つの言語の区別ができなくなる。

oxとbœufが別々の言語に属していると言えるためには、それらが何か同じものを指しており、それらが互いに翻訳可能でなければならない。

繰り返しますが。それらが互いに翻訳可能でなければ、それらはいわば一つの同じ言語に属しているも同然であり、英語とかフランス語とかいった区別そのものが認識不可能になってしまう。

これは突き詰めて言えば、

翻訳は二つの言語を前提しているけれども、同時に、二つの言語が二つの言語として認識されるためには、つまり、言語の一体性を認識するためには、翻訳を前提しなければならないということです。

そして、

この図式を攪乱するのが固有名に他なりません。

固有名は翻訳できない。

ということは、固有名詞は何語に属するといえない。

バベルは、ヘブライ語でも、日本語でも、バベルなのです。

言語の一体性、あるいは、二つの言語の区別というものは、固有名詞において曖昧になる。

そしてもし、

デリダが示唆するように、

あらゆる一般名詞もまたバベルのような固有名だとしたら、

日本語とか英語とかフランス語といった言語の一体性はなお一層のことあやしいものになります。

そういうわけでデリダは、

ヤコブソンが翻訳について話をしながら、言語の一体性が最終的には確定可能であると前提していることを批判しているわけです。

「翻訳文化論」の冒頭でこの話をしたのは、

何々語がまずあって、その上で翻訳がなされるというこの一般的な思い込みを

一度括弧にいれてもらいたかったからでした。

何々語が存在するためには、

翻訳がなければならない。

だから、

翻訳は言語にとって二次的な現象ではなくて、

まさしく本源的な現象である。

さて、更に問題は続きます。

先に書いた、牛という〝同じもの〟、

これが大問題となる。

そのためには

ソシュールの言う言語の恣意性について考える必要があります。

ソシュールの言う言語の恣意性については本当にいろいろな議論がありますので、

単純化して書きます。

ソシュールは、

シニフィアンとシニフィエの結びつきとして言語を捉えた。

シニフィアンはとりあえず記号として、

シニフィエはとりあえず意味として、

考えてください。

両者は不可分である。

これはどういうことかと言えば、

あらかじめ概念や意味があってそれに記号が与えられるのではないということです。

丸山圭三郎が使っていた例ですが、

オオカミという記号があるから、

オオカミというものが他から区別される。

もしオオカミという記号がなかったら、

オオカミは単に犬の一種として捉えられているだろう(実際、オオカミはイヌ科の動物ですから)。

とはいえ、

我々はどうしても

あらかじめ事物や概念や意味があって、

それに記号が与えられると考えてしまいます。

しかしそうではないとソシュールは考えた。

このことは実は翻訳してみるとよく分かります。

先に、

牛という〝同じもの〟が

英語ではoxと、フランス語ではboeufと呼ばれると言いました。

しかし、

両者の意味は実は違っています。

英語の場合、

牧場にいる牛はoxでも、食卓に上った牛はbeefです。

ところがフランス語の場合、

どちらもboeufです。

重要なのは、

oxとboeufの違いは

beefという語彙の有無によって決まるということです。

ということは、

あらかじめ事物や概念や意味があってそれに名前がつけられるのではなくて、

oxとbeefとかいった記号間の関係によって、意味されるものが決定するわけです。

ソシュールは、こんな例も挙げています。

フランス語には、craindre(おそれる)、redouter(こわがる)という似たような意味の語がありますが、

もし、一方がなかったら、その一方が担っていた意味は他方が担うことになったでしょう。

だから、記号間の関係が、意味されるものを決定している。

したがって、意味されるもの(シニフィアン)と意味するもの(シニフィエ)との関係は必然的ではなくて恣意的である。

雑な説明ですが、

まぁこんなものとして考えてみてください。

さて、ここで注意すべきなのは、

シニフィアン/シニフィエと

指示対象を区別することです。

この前、北海道でも牛を見ましたけど、

boeufとかoxとかによって意味されるシニフィエとは、

決して「モー」と鳴いている実際の牛のことではありません。

それらが担っている意味のこと、概念のことです。

「モー」と鳴いている実際の牛は「言語外現実」にあると言われます。

これを指示対象と呼びます。

これをシニフィエ、つまり記号の意味する概念と混同してはいけません。

oxは牧場にいる牛という意味をもち、beefは食材となった牛肉という意味をもつ。

このようなox/beefに相当するものをもたないフランス語では、両者がまとめてboeufと呼ばれるのが何よりの証拠です。

シニフィアン/シニフィエの恣意性ということでソシュールが言いたいのは、

そうした意味はあらかじめ存在しているのではなくて、

oxというシニフィアン、beefというシニフィアンがあるから存在するのだということです。

ここまではいいですね。

さて、すると、

さっき「牛という〝同じもの〟」と書きましたけど、

その存在が疑わしくなるわけです。

だって、

oxとboeufは〝同じもの〟なんて指していないわけです。

このことからソシュールを批判したのがエミール・バンヴェニストです。

ソシュールは言語は事物と名前を結びつけるのではないと言っているが、

記号の恣意性を説明するにあたっては、結局事物をつかった説明をしているではないか、

とバンヴェニストは批判しました。

 

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たとえば、

ソシュールは言語の恣意性を説明するにあたって次のような言い方をしています。

「たとえば « sœur »という観念と、そのシニフィアンの役割をもつ一連の音s-ö-rとの間には何ら内的関係はない。その関係は、他のいかなる音の連続によっても十分に表すことができるのだ。言語間の相違や、異なった言語が存在するということそれ自体が、そのよい証拠である。« boeuf »というシニフィエは、国境のこちら側では、シニフィアンとしてb-ö-fをもつが、向こう側ではそのシニフィアンはo-k-sなのだ。」

これは、シニフィアンがあるからシニフィエがあるという原則に反しているではないか、とバンヴェニストは言うのです。

確かにそうです。

boeufとoxによって意味されるもの(シニフィエ)は違う。

なのにソシュールは、

「« boeuf »というシニフィエは、国境のこちら側では、シニフィアンとしてb-ö-fをもつが、向こう側ではそのシニフィアンはo-k-sなのだ」

と書いているわけです。

だからバンヴェニストは、

ソシュールがいかにシニフィエに対するシニフィアンの関係が恣意的だと主張していようと、彼が実際に考えているのは、シニフィエすなわち概念ではなく、事物そのものである

と断言するわけです。

これは強力な批判です。

ここではそれ以上の判断は下せません。

とにかくここから、

翻訳を巡る重要な論点を引き出すことができます。

最初にbœufとoxとが牛という〝同じもの〟を指していると言いましたけど、

そう言う際の「同じ」を保証するものはどこにもない。

実際に我々が、日本語の中で、bœufとoxとを比較する際には、それを牛という語に翻訳し、その牛という語がもつ観念を頼りにしています。

しかし、牛、bœuf、oxといったシニフィアンはそれぞれ独自のシニフィエをもつのであって、

理論的には、それらが何か同じものを指しているという保証を与えることはできない。

「同じものが英語とフランス語では違う名で呼ばれる」と言われる時の「同じもの」など存在しない。

bœufのシニフィエとoxのシニフィエとは違います。

beefの存在がその違いをもたらすことは上で何度も述べました。

ですが、

それら二つのシニフィアンが「違う」と言えるのは、

それら二つが何か同じものを指していると想定しているからです。

つまり、それら二つのシニフィアンが、我々が日本語で牛と呼んでいるものを等しく指している、ある一つの「同じもの」を指していると考えているから、その間の違いを語ることができるわけです。

たとえば、我々はbœufとdogは違うとは言いません。

なぜなら、それらが「同じもの」を指していると想定したりなどしないからです。

我々は、bœufとoxとが同じものを指していると言ったり、

あるいは、

bœufとoxとは微妙に異なると言ったりして、

bœufとoxとを翻訳したりする際に、否応なく、この「同じもの」を想定しています。

しかし、繰り返しますが、そのようなものは存在しない、存在し得ない。

するとどうなるか。

もし、この「同じもの」がないと前提したなら、我々は、bœufとoxとが「同じもの」を指す異なった名だとは認識できなくなる。

そのとき、bœufとoxは単に二つの別々のシニフィアンとして捉えられるだけになる。

たとえば、oxとdogが並んでいるように、bœufとoxが並んでいることになる。

これは

そこに二つの言語があると認識できなくなるということ、

二つのラングを設定できなくなるということです。

まとめると次のようになる。二つの言語(ラング)の間には同じものはない、あり得ない。しかし、同じものがなければ、二つの言語(ラング)もない、あり得ない。

これを翻訳論の文脈に置き換えるとどうなるか。

我々が二つの言語(ラング)を想定できる、すなわち、我々が二つの言語の区別を前提できるのは、

bœufとoxが何か「同じもの」を指していると想定できる時、

すなわち、その「同じもの」を前提した時に他ならない。

だが、その「同じもの」は存在し得ない。

我々に与えられるのは、bœufというシニフィアンによって与えられる概念と、oxというシニフィアンによって与えられる概念だけだからです。

すると、

二つの言語があるから翻訳ができるのではない

ということになります。

むしろ、

翻訳ができるから、いや、翻訳をしようとするから、二つの言語がある。

なぜなら、翻訳をしようとした時、その時初めて、この「同じもの」が前提されるからです。

言語論は翻訳論でなれけばならず、翻訳論は言語論でなければならない。

そういうことになるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・

久しぶりにこの議論のことを思い出したので書いてみました。

思い出しながら書いてたので、ちょっと読みにくいかも。

諸々の事情から、

多摩美の授業は今年度で終わりにさせていただくことになりました。

その思い出のために、

五年前の一回目の授業について書き記した次第。

とはいえ、

後期の授業が今週始まりましたので、

そちらは最後まで気合い入れて全力投球です。

今学期はフーコーをやります。

受講生のみなさんよろしく。