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責任、そして「隣人になる」こと

 私はずっとルカ書の「善きサマリア人の譬え」に関心を抱いてきた。最近、その関心が高まっている。最近出版した拙著『中動態の世界』で責任について論じたのがきっかけである。同書で私は意志の概念が人に行為の責任を問うための根拠になっている事実を強調した。簡単に言えば、「これは君が君の意志で行ったことだから、その責任は君にある」という話である。

 このような意味での責任は現在の我々の社会を維持するためには必要不可欠であろう。しかし、出版後、私はこれは堕落した責任の概念に過ぎないと考えるようになった。責任は英語ではResponsibilityと言い、Responseすなわち応答と関係している。責任とは何か呼びかけに応答する時に生まれるものなのだろう。だが私が扱ったのは、呼びかけに応答すべきであるにもかかわらず応答しない者に意志の概念を使って応答を強制する、そのような責任である。これが堕落した責任でなくて何だろうか。

 あの譬え話の中でサマリア人は、身ぐるみを剥がされ、半殺しの状態で地面に横たわっている旅人を気の毒に思い、介抱するだけでなく、宿に連れて行って宿代まで支払う。この人物は旅人を前にして何か応答しなければならないとの気持ちを抱いたのだろう。ここには責任の原初形態とでも呼ぶべきものがある。義の心と言ってもよい。

 更に興味深いのはこの譬え話が、イエスによって律法学者の「隣人」を巡る質問に切り返すようにして語られていることである。律法学者は問う、「では私の隣人とは誰であるのですか?」(Καὶ τίς ἐστίν μου πλησίον;)。イエスは善きサマリア人の譬え話を語り、最後にこう質問する。「この三人のうち誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか?」(τίς τούτων τῶν τριῶν πλησίον δοκεῖ σοι γεγονέναι τοῦ ἐμπεσόντος εἰς τοὺς λῃστάς;)。

 律法学者は隣人とは誰であるか(ἐστίν)と問うた。イエスはそれに対し、誰が隣人になったか(γεγονέναι)と問う。人は誰かの隣人であるのではない。誰かの隣人になるのだ。私にはイエスがそう言っているように思える。「であるεἰμί」ではなく、「になるγίγνομαι」こと。ここにこそ責任を巡る真の思想があると私は信じるのである。

 

(『福音と世界』2018年7月号)