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近所の大学で… (1)

今日は大学の推薦入試の面接試験でした。

休日出勤。

経済学部ですので、

どうして経済学なんですか、と

当然聞くわけですけれど、

答えの多くが、

地元が過疎化している、

近所の商店街はシャッター街、

地元は人口が減って活気がない、

地元は失業率が高い

等々、

そういった

自分の出身地の経済的困難を

経済学への関心と結びつける答えが大半でした。

いまとなっては

そういう事態は当たり前のように思えるかもしれませんが、

少し前のことを思い起こすと

隔世の感があります。

俺が大学生の頃は

バブル破綻後で、

日本は大変な経済的危機に見舞われていましたけれども、

一億総中流階級という言葉はまだ残っていました。

こんな話を印象的なものとして覚えています。

柄谷行人が言っていたことです。

——自分が学生だった六〇年代は

今とは違い

まだ貧困の問題があったから、

そこから経済学に関心をもつ人が多かった…。

俺はこれを聞いた時、

「へぇ、ずいぶんと昔の話だ…」

と思ったのですよ。

中島みゆきの歌の歌詞じゃないけど、

「そんな、時代も、あったねと、…」、と、

そう思っていたんです。

こういう感覚というのはすぐに忘れられてしまうものですので、

しっかり書き残しておく必要がありますね。

まさしく、

時代が一回りしたと言わざるを得ません。

今、

再び、

貧困の問題から経済学に関心をもつ人が増えているんですね。

さて、

前置きが長くなりました。

一昨日の金曜日、

萱野稔人さんに呼ばれて、

津田塾大の研究会で

発表しました。

俺は去年まで、

津田塾大のキャンパスの真ん前にあるアパートに住んでいたんですね。

ちょっと離れましたが、

いまも、

西武国分寺線、鷹の台駅付近に住んでいます。

いやぁ、このあたりはいいですよ。

本当に気に入っているんで、

家まで買ってしまったんです。

発表というと

電車に乗って遠くの大学に行って

というのが普通ですが、

自転車で10分もかからないところに行って

やれフーコーだ、やれドゥルーズだ、

としゃべるのは

とても新鮮でした。

だいたい、

毎日、

保育園の送り迎えで

津田塾大の横を通ってますからね。

キャンパス内に入ると

変な感じです。

普段は入れないから。

発表は、

ドゥルーズのフーコー解釈について

特に、

権力と言表についてのものでした。

具体的には、

萱野さんが

「フーコーの方法」という

すごい論文の中で提示している、

フーコー解釈、

および、

ドゥルーズのフーコー理解に対する批判に

俺なりに答えるというものです。

内容的にはかなり高度なものになりました。

ものすごく凝縮してお伝えすると、

ドゥルーズはフーコーを解釈しつつ、

すべての社会的な編成の根源に

権力を共通原因として見出すんですね。

言説的編成(不正確に言い換えると「言葉の世界」)と

非言説的編成(不正確に言い換えると「物の世界」)との間を架橋するのが

権力である、と。

萱野さんはこれに反対しています。

萱野さんはあくまでも

権力と知の「協働」にこだわります。

ドゥルーズは権力だけをなぜか特権化してしまっている。

フランス語だと、

権力はpouvoirで、知はsavoirですが、

これらの名詞はどちらも助動詞として使えて、

しかもどちらも「できる」という意味をもつ(但し意味にはズレがある)。

フーコーはそのことを意識して使っていると萱野さんはいいます。

ということは、権力にせよ、知にせよ、「可能性の地平」を開くものである。

二つはカップルで作動していくのだ、と。

さて、

こうした権力理解の違いは、

言表enoncéの概念の理解の違いに明確に現れます。

言表というものの定義がまたややこしくて、

当日も二人でいろいろ話し合ったんですけど、

とりあえずここでは、

言説の基本単位とだけ考えておいてください。

さて、萱野さんは、言表に関してかなり大胆なことを言っています。

萱野さんは、言表は力の関係を実現する機能、関係を実現する作用を、みずからのうちに内在させていると言うのです。

「言表は、力の関係を実現するような機能をそれじたいでそなえたものとして位置づけられなくてはならない」。

「言表は〔…〕記号における存在の力として、関係を実現するような作用をみずからのうちにそなえている」。

(『権力の読みかた』、p.215、p.217)

俺はずっとこれに引っかかっている。

そうだろうか。

言表は

なんらかの力の作用によって

力を実現する機能を与えられるのではないか。

そう思うんですね。

萱野さんによれば

理論的に応答してきたのは俺だけみたいです。

誰もこの解釈に反応してないんですね。

読んでないのか。

ドゥルーズはこう言っています。

(AZERTというのはフーコーが言表を説明する際に挙げている有名な例です)。

「〔…〕キーボードの上のAZERTは、力の様々な焦点の集合〔ensemble de foyers de pouvoir〕であり〔…〕」。

(ジル・ドゥルーズ『フーコー』、河出文庫。p.32)

つまり、

言表それ自体が力を実現する機能をそなえているのではなくて、

力の行き交う交差点というか、

力の焦点が集まった地点が

言表である、と。

なぜこのような解釈の違いが出てくるのか?

権力の位置づけが違うからです。

ドゥルーズは

フーコーの図式の中に、

権力を

根源的な共通原因として位置づける。

すると、

どんなことも

権力によってなされているということになります。

だから、

言表が権力によって何らかの機能や作用を与えられるというのは理の当然。

対し、

萱野さんは知と権力の協働に力点を置くわけですから、

そこに共通原因というものは見出さない。

むしろ

その協働の事実が

言説の編成の分析によって明らかになるのだと考える。

言説的実践と非言説的実践との関係はそれ自体で言説的であり、

言説の編成を分析することはそのまま社会の編成を問うことにつながる(『権力の読みかた』p.193)。

言説の編成を分析することで、

その共同によって織りなされる社会領野そのものが分析できる。

そうした言説的編成の単位が言表である。

ドゥルーズは非言説的編成と言説的編成との間を権力によって架橋しましたが、

萱野さんは知と権力の協働の場そのものとして言表を見出すわけです。

だから、言表そのものに——知と権力の協働によって織りなされる——関係を実現する機能を見ることになるわけです。

どうなんでしょう。

俺はドゥルーズの解釈の方に納得しているのですが、

俺としても

萱野さんほどには『知の考古学』を読み込めていないので、

うまく反論はできませんでした。

まぁ、

フーコーとドゥルーズとでは分析の水準が異なっているというのは言えます。

これは研究会でも確認されたことだったんですけれど、

たとえば、

ドゥルーズは資本主義の存在論に行く。

要するに資本主義とは何かという話に行く。

対しフーコーは資本主義が具体的にはどのようにして勃興し得たかという話に行く。

要するに大量の人口をまとめ上げる規律訓練という技術の分析に行く。

フーコーの分析では

資本主義とは何かという話にはならない。

で、

——ここからが問題ですけど——

ドゥルーズはそのような自身の志向性をそのままに、

フーコーを解釈しているところがあって、

そのせいで

知と権力の協働をプラグマティックに見ていくという視点はまったく採用せず、

社会の根源には権力があるという類の存在論的な見方になる。

このように考えた上で、

萱野さんはフーコー的な立場でフーコーを読んでいると考えれば、

ドゥルーズ(あるいは俺)と萱野さんのフーコー理解の違いの理由も分かるわけですね。

これは本当に立場の違いという感じがします。

『知の考古学』というのは本当に難しい本ですね。

萱野さんがこの本を高く評価しているのは印象的でした。

言語論としては

ソシュールよりすごいんだと断言してました(!)。

言語の存在そのものを考えようとしたのはフーコーだけだとも言ってました。

これも大胆だ。

どうなんでしょうね。

こんな風な抽象的な話を二時間ぐらいしてたんですけど、

俺はやっぱりドゥルージアンだなぁと感じ入った次第。

発表の最後では、

権力(フーコー)か欲望(ドゥルーズ)かという視点を出したんですけど

これについても、

やっぱし俺は

欲望で考えたいな、と。

今日は長く書いてますが、

これで最後。

来たる2011年1月8日(土)、

萱野さんを高崎経済大学にお呼びして講演会を開きます。

対談形式。

お相手は

宇野常寛さん。

すごいメンツです!

俺が司会で入ります。

高崎経済大学経済学部國分ゼミナール生主催のイベントです。

ゼミ生がまたおもしろいタイトルをつけました。

    「悪い哲学 ―これから「悪」について話をしよう―」

はい、そうです、

なんか見たことあるタイトルです。

詳細はまた追って。