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違和感

今日、内田樹氏の『ためらいの倫理学』という本を電車の中で読んだ。

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)/内田 樹

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ある事情で出版社の方が送ってくださったものだったのだが、俺は読みいってしまった。

内田樹氏には変な縁がある。

俺が彼と共通の境遇にあるということで(この境遇についてはまた書くことがあると思います)、よく叔父が、内田樹氏が出ている週刊誌の記事の切り抜きを送ってくれていた。

だから彼が週刊誌に寄せたコメントとかエッセイとかはよく読んでいる。

彼のこれまでの人生についての話はおもしろかった。

でも、政情とか社会についてのコメントにはあまり感心しなかった。

なんというか、印象論だからである。

印象論は何故ダメなのか。

その時の具合で右にも左にも行ってしまうからである。

特に哲学者たるものは、概念で思考し、印象論を何としてでも退けねばならない。

これは多少臆しながら言うが、内田樹氏は哲学者ではない。

彼の書くものからは概念による思考は感じられない。

彼はレヴィナスについて研究していたので、俺とはけっこう研究領域が近い。

しかし、ハイデッガーが言っているように、哲学について研究しているからといって哲学しているわけではない。

とはいえ、ものを考えることが哲学を必要とするとか、ましてや、ものを考えることが哲学者の特権であるなどと考えてはならない。

ドゥルーズが明言しているように、ものを考えるのに哲学など必要ない。

数学者は数学者のやり方で、科学者は科学者のやり方で、起業家は起業家のやり方でものを考えている。

哲学はただ概念によってものを考えるというだけだ。

では内田樹氏はどのようにものを考えているか。

概念によってではない。

彼の、成功した書き物はすべて、保持された違和感に基づいている。

彼は違和感をごまかさない。

人は「なんかおかしいなぁ」と思ってもそれを忘れてしまう、というか、忘れるようにつとめるものだ。

しかし、内田樹氏はそうしない。

彼は、自分が面接官となった或る面接の場面で、同じく面接官であったある人物が学生に「NATOのユーゴ空爆についてどう思うか」と何度も問いただし、挙げ句の果て「アメリカの学生はみんな自国が関わっている戦争には関心をもっている」と諭したことに違和感をもつ。

そして、そこからスーザン・ソンタグに対する批判を展開する。

戦争の現場に来ないであれこれ言っている知識人を非難するソンタグは、戦場に来ないであれこれ論評するだけの日本政府の弱腰を非難するアメリカ政府と同じではないか。

また、高橋哲哉氏の戦争責任論についてもかなり説得力のある批判をしている。

これについては次回以降で書こう。

いずれにせよ、偉そうな言い方かもしれないが、俺は、彼が違和感というものを書き物の根底に据えていることに強く共感したのだった。




俺は自分が大学生だったころを思い出した。

俺はずっと自分が差異のない世界に生きていることに悩んでいた。

自分が差異のない存在であることに猛烈に悩んでいた。

で、あるときにひらめいたのだった。

俺がもちうる差異は違和感しかない。

ドイツ語の先生がやっていた一般教養ゼミというので、大学四年生の時、そのことを発表した覚えがある(先生はぼけーっと聞いていた)。

「なんか違う」「そうではない」「何か分からないが、何かが間違っている」。

そういう違和感を保持することは大変である。

だが、そこからこそものを考えるという作業が始まる気がする。

と思ってたら…

ドゥルーズが同じことを言っていることを知った。

『差異と反復』には次のように書かれている。

思考の始原にあるのは、敵であり不法侵入である。

つまり、何か暴力を働くものこそが思考を起動する。

いまの教育ではやたらと「自分で考える力」などというものが称揚されている。

しかし、考えるということはそんなに自明なことだろうか。

いったいどうしたら考えるという行為が発生するのか。

俺にとってはドゥルーズの答えがとてもしっくりきた。

たとえばハイデッガーはかなり違うことを言っている。

考えるということは贈り物である、と。

考えるということと敵や不法侵入を結びつけたドゥルーズとは大違いである。




内田樹氏は多分ものを考えるのにものすごく時間がかかるひとだろうと思う。

違和感を保持し、それを醸成することでものを考えて書いているからである。

彼が違和感なしに書いたことはおもしろくない。

雑誌の編集部から電話がかかってきて適当に求められたと推測されるコメントなどはおもしろくない。

『ためらいの倫理学』も「まえがき」は全然おもしろくない。

違和感もクソもなく、単に自分が書いてきたことをまとめようとしているからである。

俺は学生にも「イヤだな」「なんかおかしいな」と感じたらそれをごまかさないで、何がイヤなのか、おかしいのかをずっと考えなさいと言っている。

ゼミの募集要項にもそう書いた。

それをおもしろいと思ってゼミに来てくれた学生もいた。

「自分で考える力」を教育したいなら、違和感を保持する力の大切さを教えるべきだろう。