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雰囲気、無意識、アナグラム、こどもになること…

昨日、

「雰囲気の力」

って文章を載せましたが、

雰囲気というのものついては

よく考えます。

あれは無意識と関わる現象だと思います。

俺は、

意識よりも無意識の方が精神の中で広大な場所をしめており、

無意識は意識とは比べものにならない速度で情報処理を行っており、

意識はその結果だけを受け取っている

というフロイトの考えを受け入れるのに

ずいぶんと時間がかかりました。

そのことはちょっと前に『フロイト全集』の月報でも書きました。

一番覚えているのはソシュールのアナグラム研究のことです。

アナグラムというのは、

文字を入れ換えると全く別の意味の文章になるという現象もしくは言葉遊びのことです。

たとえば

Dormitory = Dirty Room

みたいなやつですね。

ソシュールが晩年これを研究していたらしいんです。

俺は学部一年の時

丸山圭三郎をずいぶん読みました。

言分け(人間は言葉によって世界を分節しており、言葉がなければ無形の塊として世界は存在するに過ぎない)

とかけっこうはまってました。

まぁ、その後、これが新カント派に近い考えだとか、

そんなことはないだろうとか

いろいろ考えを進めては行きましたが、

でも、おもしろかったんですね。

で、

そんなに熟読していた丸山の本ですが、

彼が、ソシュール晩年のアナグラム研究を重視していたことだけは

全然理解できなかった。

いろんな文学作品とかにアナグラムが見出されるらしいんですが、

俺は

「そんなもんはどう考えたって偶然だろう」

と思っていました。

だから丸山がなんでこんなのを重視しているのか、

ソシュールがなんでそんなものを研究したのか、

全然分かりませんでした。

これを単なる偶然と区別するには

無意識の考えが必要です。

つまり、

意識はアナグラムを理解できないけれども、

無意識は意識が理解できずとも、あるいは理解する前に

アナグラムを察知する。

そう考えれば、

これは少しも変なことではない。

でも、

この考えを受け入れると

意識の支配というか、

意識を中心に据えて人間を捉えるという

人間観そのものが崩れてしまうわけです。

俺にはそれがおそろしかったんだと思います。

だから、

何としてでも理解したいと思ってすらいたのに、

丸山の、ソシュールの、アナグラム論を理解できなかった。

雰囲気というのも、

無意識が感じ取る様々なサインの集合なんだろうと思います。

意識では分からなくても、

無意識は大量の情報を受け取りそれを処理している。

その結果として出てきた何かを、

意識は雰囲気として処理しているのです。

KY(空気読めない)というのがちょっと前に流行りましたが

空気というのも、

この雰囲気と一緒でしょう。

でも、空気を読めない人でも、

別に情報を受け取っていないわけではない。

KYな人というのは

受け取った情報を意識の登らせないような回路が出来上がっている人のことでしょう。

そしてそれは

その人が生きていくためにどうしても必要だった回路なんだと思います。

耐え難い情報が飛び交っている環境に生きていれば、

どうしたってそういう情報を意識の登らせたくないはずです。

だから、KY回路を作って

生き延びてきたのです。

大人とは

多かれ少なかれ

皆、KYではないでしょうか。

大人になるというのは

生き延びるための回路を作っていくことです。

こどもが

もし

弱い

あるいは

素直であるとすれば、

それはこどもがそうした回路をまだ作り上げていないからでしょう。

だから

こどもの方が新しい環境に対して弱いし、

いつもと違うことをするのを嫌うのではないでしょうか。

ドゥルーズ=ガタリが

「こどもになること」

と言っています。

「こどもになる」とは、

生き延びるために作っていた回路が

何らかの拍子に壊れてしまうことだろうと思います。

それはつらさを伴っています。

しかしそれは同時に

新しい知覚をもたらす。

なぜなら、

それまでの知覚の回路が変更されることであるからです。

ドゥルーズ=ガタリは

「こどもになること」と芸術家をよく結びつけますが、

あれは、

芸術家が、

よくあるタイプの、生き延びるための回路と

異なるタイプの回路をもっているから

あるいは

回路がしばしば変更されるから

ではないかと思います。

だから、

芸術家になる

ということはしばしば起こることなのです。

俺は前に、九州の炭坑の町の小学生が書いた詩を読みました。

朝から晩まで灰が降っている、そんな場所です。

詩の内容は忘れてしまったのですが、

俺はその詩に強烈なインパクトを感じました。

その詩を書いている時、

その少年は、

おそらく、

非常に奇妙なタイプの知覚の回路を自らにインストールしていた。

その回路は彼の生活環境と無関係ではないでしょう。

そして、

その回路が彼の手に、

あの詩を書かせた。

俺にはそういう風に読めました。

あの詩をメモしておけばよかったと

いまも思います。