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非線形のエチカ

前に安冨歩先生の著書を紹介しました。(ここ )

その安冨先生が昨年末に『経済学の船出』という本を出版されました。

 

経済学の船出 ―創発の海へ/安冨 歩

¥2,520

Amazon.co.jp





これを読んで以来、

どうこの本を紹介すべきか

ずっと悩んでいたのですが、

今回書くことにします。

というのも、

この本は後半がスピノザ論になっており、

しかもそれが

俺にとって実に強烈というか、

自分の関心にぴたりときたというか、

まさしく目を開かせてくれたというか、

本当に驚くべき内容であったからです。



俺は高崎からの帰宅途中でこの本を読み始めましたが、

途中で最寄り駅を乗り過ごすところでした。

本に熱中して乗りすごしそうになったのは

久しぶりのことでした。



また、

我田引水のつもりはありませんが、

この本は俺が『スピノザの方法』で論じた

デカルトとスピノザの違いを

より大きなパースペクティヴにつなげてくれるものでした。

この本を読んで、

自分が明らかにしたあの違いが、

三〇〇年ほど前に行われた、

科学上の、

あるいは

人類の知の

大きな選択に関わっていたことを

初めて知りました。



とても全体の解説はできないので、

かいつまんで書きます。

この本は、

近代西洋の思想を根底から規定している

「共通のもの」、「コムニスcommunis」に対する批判

を根本的なテーマにしている本だと言えます。

(因みにこの本、もともとは「叢書コムニス」の一冊として構想されたらしいんですが、コムニスについて調べ始めたら、「反コムニス論」になってしまい、どうしようかと安冨先生は頭を抱え、いくら何でも「反コムニス論」を「叢書コムニス」に入れるわけにはいかないだろうと、同叢書への執筆を勧めた西垣通氏にお願いして単独の本にしてもらったという、笑えるんだか笑えないんだかよく分からない話が後書きにでてきます。)

さて、

コムニスはコミュニケーションへと受け継がれた言葉です。

で、

安冨先生はコミュニケーションについていろいろ調べる。

その中で、

communicationにex-をつけると「破門」の意味になることを発見。

まずここで驚き。

で、

「破門」について調べて行く中で、

清水禮子『破門の哲学』なるスピノザ論があることを思い出し、

スピノザについて調査。



それにしても安冨先生という人は、

まっすぐにものを調べて行くひとで、

おもしろいですね。

「叢書コムニス」だから「コムニス」について調べるという。



さて、清水禮子についても

大変興味深い(というか、実のところは読み手が胸を痛める)

話と解釈が紹介されていますが、それは割愛します。


安冨先生がスピノザを読む中で注目したのは、

なんと、

ホイヘンスとの関係です。

結論から言うと、

ホイヘンスがやった時計の振り子の「同期」の実験から

スピノザは哲学的に決定的な影響を受けたというのです。


ホイヘンスは精密な振り子時計を開発しようとしていました。

あるとき、

部屋の壁に二台の互いに周期の微妙に異なる柱時計をかけておいたところ、

なんと、

あるとき、

その二つが正確に一致して動いていたことに気づくのです。

「この二つの振り子は、「共感(sympathy; sympathia)している時には同じ向きにはならず、かならず正反対の方向に揺れていた。両者の距離をもっと離すと、「共感」は失われ、一日に五秒の誤差が生じた」(p.223)。

ホイヘンスは実験を重ね、

共感の原因は、両者を支えている壁の微妙な振動を通じて相互作用が働いていることだと突き止めます。





この現象は現代ではよく知られているものだそうです。

一九六〇年代以降、

「非平衡熱力学」や「非線形科学」といった分野が興隆するようになると、

自然界にはこのような「同期」現象が満ちあふれていることが分かってきたのです。

超伝導、レーザー、地震、橋の崩落、

更には生命がこの現象に大きく依存していること、

たとえば心臓や脳の作動が同期を密接に関わっていること。



つまりホイヘンスは

振り子の同期現象を通じて、

後の科学が発見する事態に迫っていたことになります・

ところが、

問題はこの後。

先に「一九六〇年代以降」と書いたことからも分かるように

ホイヘンスも、

そして

自然科学全体もまた、

この現象について考えるのを止めてしまったのです。

三〇〇年もの間、

この重大な発見の意義は真剣に取り上げられなかったのです。


この発見の意義を安冨先生は四つにまとめています。

(1)双方の柱時計が、同じ本性を事前に「共有」していたから「共感」が起きたのではないということ。
→両者はそもそも互いに一日で五秒のズレを生じる、異なる振動数を持っていた。ところが同じ壁に掛けられたことで、微妙な相互作用が起こり、振動数を共有するようになった。

(2)同期後の振動数は、いずれの柱時計の本来の振動数とも異なっているということ。
→どちらかの振動数がもう一方に〝強制〟されるのではなく、どちらとも異なった振動数が接続によって生まれる。

(3)この「共感」の状態が安定だということ。
→「共感」の状態を無理に崩しても、両者は互いに振動数を調整しあって、やがて元の「共感」状態に復帰する。

(4)二つの柱時計のみならず、それを接続している板や椅子もまた、重要な要素となってシステムを構成しているということ。
→柱時計の「共感」を崩すと板を渡していた椅子がガタガタと動き出した。



何か共通のものがあらかじめあって

それが実現されるのではなく、

特定のシステムが

安定した「共感」の状態を創出するわけです。



スピノザに行きましょう。

スピノザは「力能の共通性による合一」

ということを言います。

これはそのまま読めば、

力能にそもそも共通性があって、

その共通性が発揮されると読めます。

しかし、

これをホイヘンスの実験から読むとどうか。


ホイヘンスはスピノザと同時代人です(三歳違い)。

住んでいるところも近かった。

それどころか、本の貸し借りをするような親密な仲でした。

しかも書簡集をよく読むと、

スピノザはどうやらこの共感実験に強い関心を抱いていたらしいことが分かるのです(書簡三二)。

すると…

「このことを念頭に置くと、スピノザの「合一」という概念は、複数の物体が相互に接続されて新しい「構成関係」を作ることだと解釈することができる」(p.231)。

スピノザの言うラチオは

システムを特徴付ける振動数のようなものではないかと解釈できるのです。


あるいは有名なコナトゥス。

これは生命だろうと石だろうと、

およそあらゆるモノは、

自己の存在に固執するように努める傾向をもつということですが、

なぜあらゆるモノにそれを認めるのか?


柱時計の同期を崩すと椅子がガタガタと動き始め、

同期が再現されるとピタリと動きを止める、

この現象をスピノザが目にしていたとしたら、

彼は

単なる物の組み合わせであろうとも

自己制御機能を持っていると考えるにいたっても不思議ではない。


非線形科学の用語では、

このことを

同期状態が安定なアトラクターになっている

と表現するそうです。

スピノザは

「いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない」

と言いますが、

これは

或る状態をアトラクターとしてもつシステムの、アトラクターへと復帰しようとする指向を止めるためには、外部から力を加えてシステムを破壊するしかない

ということを意味していることになる。




さて、

以上を踏まえて安冨先生は次のように言います。

もしもスピノザ哲学がホイヘンスの同期実験に影響を受けていたのだとすれば、

スピノザ哲学が現在に至るまで常に過激で先進的な思想でありえた理由は

もはや明らかだろう、と。

スピノザ哲学は

三〇〇年もの間無視され、

その後で俄然注目を集めるようになる科学的知を

その内に宿していた。



更に言えばこう言うことになります。

一七世紀後半、

人類には二つの道が用意されていた。

一つは、デカルト/ニュートンの道。

もう一つは、スピノザ/ホイヘンスの道。

「この時点で人類は、大きな分岐点に立っていたことになる」(p.236)。

人類は迷うことなく前者の道を選んだ。

「この間に人類は自らの手で地球を破壊しかねないところまで来てしまった」(p.236)。

しかし、

二〇世紀の半ばにコンピューターが出てきたこともあって潮目が変わり始めた。

科学はゆっくりと

分析的な線形科学(デカルト/ニュートン)から離脱し、

非線形科学へとシフトしつつある。

つまりようやく

スピノザ/ホイヘンスの方へと舵を切りつつある…。




非線形科学が注目され始めた時代と

哲学の中でスピノザが注目され始めた時代は

重なっています。

どちらも一九六〇年代後半です。



俺は『スピノザの方法』で

説得というモーメントに注目しつつ、

デカルトが人を説得できる真理を目指していたのに対し、

スピノザは説得とは無関係なところで真理を考えていたと述べました。

もしかしたらこの差異は

一七世紀後半にあった二つの選択肢に対応しているのかもしれないのです。



俺の考えではデカルトもスピノザも合理主義ですが、やはりその意味が違います。

安冨先生は「合理主義的な神秘主義」の必要を説き、

スピノザにもそれを見ていますが、

とにかく二人の合理主義は違う。




フーコーによれば一七世紀に現在の「理性」の原型が多大な苦労の元に作り上げられました(『狂気の歴史』)。

その「理性」とはデカルト/ニュートンに対応する合理主義のそれではないでしょうか?

同じくフーコーは『主体の解釈学』で、

スピノザ(特に『知性改善論』)こそは、

デカルト以降の時代に属しつつも

デカルトとは全く異なる真理観を提示したことに注目していますが、

これもスピノザの考える理性というか合理主義が、

デカルトとは違うものであったことを示しています。



俺は科学史などは知らないので、

あくまでもデカルトの体系を脱構築するスピノザに注目しながら

二人の差異を描き出しましたが、

この差異は

デカルト/ニュートンと、

スピノザ/ホイヘンスという

人類の知の大きな選択に関わっていたことになります。

なお、俺は「神秘主義」という言葉は使いませんが、

俺が『スピノザの方法』で書いた

体験の対象としての真理というスピノザの真理観は

まさしく

「合理主義的な神秘主義」と安冨先生が呼んでいるものに対応します。



うまく説明できたか分からないのですが、

なぜ俺がここまで驚き興奮してこの本を読んだか、

おわかりいただけましたでしょうか。








しかもまだあります。

非線形科学の成果として、同期の他に、決定論的カオスという考えがあるそうです。

ニュートン力学の発想でいくと、

初期値と運動方程式が与えられれば未来の運動は決定され、予測されるはずだということになる。

しかし、

決定論的カオスは、

初期値と運動方程式が与えられ、運動は決定されているというのに、実際にはその経路を予測できないという代物。



今俺は必死に非線形科学を勉強しているのですが、

このようなカオスは自然界にありふれています。

安冨先生が挙げているおもしろい例だと

お餅を作ることができるのはカオスのお陰。



さて、なぜこれがスピノザに関係するのか。

スピノザの基本的な考えに戻りましょう。

スピノザ哲学は決定論です。

全ては必然であると彼は言います。

でも、

『エチカ』に書かれているのは、

人の生き方が人生を変えるということです。

人間は能動的になれるということです。

これはごくごく普通の、必然/自由の二項対立の考えからみたら

単純に矛盾しています。



実は俺はこの単純な矛盾の問題が全然自分で解決できていなかったし、

いまも解決できていないのです。

そもそも、

なぜこの矛盾を抱えたまま

研究者が『エチカ』を読むことができるのか

全然分からないのです。

ですから、

それはこれから勉強しようと思っていて、

『スピノザの方法』は基礎論的なものにしたのです。

スピノザがいったい何をやろうとしているのか、

それをただただ丁寧に、

しかしできるだけ明晰に描き出す、

そういうことを試みたのです。



だって、必然なのに変えられるって矛盾ですよね?

しかもそれをきちんと納得のいく形で説明してくれる解説書は全然ない。

いつも同じです。

まじめに勉強すると

本質的な問いに答えてくれる研究書がない。

『スピノザの方法』で扱った『知性改善論』の謎も、

『デカルトの哲学原理』の意図も

誰も解説してくれない。


だから必然と自由の問題はこれからだと思っていたわけですが

そう思って本を出した矢先に

大いなるヒントをもらえたわけです。

非線形科学です。

そうです、

決定論的カオスの観点からすれば、

こんな矛盾は問題にならないのです。

神であろうと、非決定論的カオスの関与するシステムを完璧に制御し続けることはできないからです(p.238)。


安冨先生は「非線形のエチカ」という言い方をしています。

そうです。

そう考えれば、

俺の永年の悩みが解決されるかもしれません。



俺は『スピノザの方法』でこう書きました。

「われわれは、スピノザの方法および方法論には逆説が取り憑いていると考えている。だが、それはもしかしたら、われわれが観念についての非スピノザ的な考え方に立って、スピノザの方法と方法論を読んできたからかもしれない。奇妙と言わざるをえないその方法概念を、スピノザが平然と提示することができたのは、彼が観念についての独自の思想を前提していたからかもしれない」(『スピノザの方法』、みすず書房、p.108-109)。

ここで漠然といわれた「非スピノザ的な考え」は、

安冨先生が言う

デカルト/ニュートン的な考えに対応しているのかもしれない。

俺はここでスピノザに対して

「平然」

という語を使っていますが、

それはまさしく

デカルト/ニュートン的なものが当時は決して常識ではなかったこと、

デカルト/ニュートンか、スピノザ/ホイヘンスかは

その後で時代の流れの中で決定されたことを意味しているものとして読むことが出来ます。

(自分で書いたのに、「読む」とか変だけど…)。


なぜスピノザが「奇妙」なのか?

しかも、なぜ「奇妙」なのに「平然」としているのか?

答えは簡単です。

我々が非スピノザ的(=デカルト/ニュートン的)なものの見方に

どっぷりと浸かってしまっているから、

そして当時は

皆がそうした見方にどっぷりと浸かってしまっていたわけではないから

です。

先にも言及しましたが、

フーコーの『狂気の歴史』が一七世紀に注目していたことの意味もここから改めて理解できるでしょう。

いま俺は、

自分の仕事が自分でも予期していなかった方向に伸びて行っていることに

大変な興奮を覚えています。

自分で書いたことを後から自分で解釈し直せるというのは、

こうして予期していなかった方向にその仕事が伸びていっているからです。

こんなにおもしろいことはありません。


そして何より

スピノザがおもしろい。