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『スピノザの方法』と一七世紀以降の知の歪み

この前

 

安冨歩先生の『経済学の船出』について書きました。

 

その後、本を読み直したり、

 

実際に安冨先生にお会いする機会に恵まれたりして、

 

またいろいろ考えが進んでいます。

 

 

 

俺は『スピノザの方法』でこんなことを言っています。

 

 

デカルト哲学は説得の要請に貫かれており、

 

そこから真理の公的な共有が目指されている。

 

 

スピノザはそれを感知していた。

 

その説得の要請こそがデカルト哲学を歪めていると考えていた。

 

スピノザ自身は、

 

説得を求めない。

 

だから真理の公的な共有も目指さない。

 

「真理は真理に到達した人にしか理解できない」というテーゼで表されるであろう、

 

体験の対象としての真理

 

なるものを考えていた。

 

 

 

我々の常識で考えたら

 

説得を求めないというのは変なことです。

 

だって、

 

分かるヤツには分かる、分からないヤツには分からない

 

と言っていることになるわけですから。

 

 

 

さて、

 

俺は

 

スピノザのデカルト読解を

 

ある種の脱構築のようなものとして描きました。

 

デカルト哲学を貫く説得のモーメントに注目することで

 

デカルト哲学そのものの歪みと崩壊地点を明らかにしてしまう。

 

俺はそこからスピノザ哲学が生まれるというようなストーリーも

 

若干ですが

 

ほのめかしています。

 

 

 

しかしこの前のエントリーで書いた

 

デカルト=ニュートン的な知と

 

スピノザ=ホイヘンス的な知が

 

実は一七世紀においては隣り合っていたのだが、

 

人類は前者を選んだ

 

という話、

 

そして、

 

その問題点に気づいた人類が

 

1960年代頃から

 

そうとは名指さないものの後者に注目し始め、

 

科学では複雑系や非線形科学が提唱され、

 

哲学ではスピノザが注目され始めた

 

という話、

 

この話を絡めると、

 

スピノザによるデカルトの脱構築は

 

単なるスピノザのデカルト読解の問題にはとどまらない

 

広い射程を持つことが分かります。

 

 

 

どういうことかと言うと、

 

スピノザがデカルトの哲学体系に見出した歪みというのは、

 

もしかしたら、

 

デカルト=ニュートン的な知

 

一七世紀以降に人類が選択した知そのものの歪み

 

であるかもしれないのです。

 

説得、真理の公的な共有

 

そうした要請こそが、

 

人類の知を歪めたのではないか。

 

 

 

説得というのは

 

自分の考えの押しつけです。

 

相手の考えをねじ伏せて、

 

自分の考えを無理矢理認めさせるということです。

 

俺の本をお読みくださった安冨先生からは

 

あそこで國分さんが注目している「説得」というのは要するにハラスメントのことだ

 

というご指摘をいただきました。

 

なるほど。

 

 

 

ならば、

 

「自分のやり方でそこに到達した人にこそ真理が理解できる」

 

とするスピノザ流の真理観は

 

ハラスメント的な知を発展させてきた人類に対して

 

新しい可能性を示してくれるものであるはずです。

 

 

 

しかも、

 

我々はすぐに説得や真理の公的な共有が当然であると考えてしまいますが。

 

『スピノザの方法』で書いたように

 

むしろ哲学体系は

 

説得のことを考えれば考えるほど

 

ゆがんでしまうのです。

 

スピノザはそのことを理解していたのです。

 

だからスピノザはすっきりとした体系を構築できたわけです。

 

そう考えると、

 

むしろ説得など求めない方が

 

当然ということにもなるのです。

 

そして繰り返しますが、

 

この歪みや一七世紀末に人類が選択した知そのものの歪みかもしれないのです。

 

 

 

書いているときは全然考えていませんでしたが

 

(というかホイヘンスのことは『経済学の船出』を読むまでは考えもしなかったので…)

 

『スピノザの方法』に書かれた

 

説得によらない真理や体系という考えは、

 

これから人類が選択していくべき知に関わっているのかもしれないと

 

そう考えるようになってきました。

 

 

とりあえず、

 

まずはホイヘンスのことを調べてみようと思います!

 

いい本があったら教えてください!