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【再掲】「思想はあった首相から思想もない首相へ」(『文藝春秋』2012年8月号掲載)

『文藝春秋』2012年8月号

〈政権交代は何をもたらしたのか——民主解体「失敗の本質」〉


に寄せた文章です。

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思想はあった首相から思想もない首相へ

 

國分功一郎(高崎経済大学准教授、哲学)

 

 三年前の政権交代は歴史的な必然であった。少し遡って説明する。

 

 自民党は経済成長の果実を公共投資で国民に再配分して支持を得てきた。この政策モデルは経済成長が前提のため、経済が失速すると効果がない。日本は56年から73年までの高度経済成長期には経済成長率が九%ほどあったが、74年から90年ごろには四%ほどに落ちている。

 

 政権交代時、民主党の中枢にいたのは90年代前半の政治改革の際に自民党を離脱した政治家たちである。彼らは経済成長を前提にした自民党の政策モデルの無効を直感していた。この直感は正しかった。自民党もまたその後、小泉政権下で政策モデルを転換し、構造改革による成長戦略に乗り出す。

 

 小泉改革はわずかだが効果をもった。一%代に落ち込んでいた成長率はやや復活した。だが構造改革は規制緩和に基づいており、これまで法規によって守られていた層を競争に晒す。国民は格差を実感した。民主党政権が誕生したのは、こうして財政出動による成長戦略も構造改革による成長戦略もどちらも潰えた時点においてである。

 

 これは評価するしないの問題ではない。「第三の道」の必要性は自明だったのであり、政権交代が歴史的必然だったとはそういう意味である。評価すべきはその後だ。第三の道にはモデルがない。新しく創造されねばならない。

 

 最初の鳩山首相は「友愛」を理念に掲げた。確かに理想主義的ではあったが、理念は政治批評を可能にする。その政治は理念に反しているではないか、と。鳩山政権の問題はむしろ理念の下での考察が全くなかったことである。沖縄基地移転問題がそれを暴露した。鳩山首相は「抑止力」という冷戦時代の言葉を持ち出し、移転案を引っ込めた。移転について現実的な考察は全く無かったのである。

 

 続く菅首相は「最小不幸社会」を理念に掲げた。これは現実と理想をうまく摺り合わせた理念と評価できる。しかし、菅直人には仲間を集めて政策を実現するという政治家の基本姿勢がなかった。仲間も子分もおらず、説明不足の姿勢は国民を苛立たせた。菅は震災後に脱原発を唱える。歴代首相初めてのことである。しかしそれも国民に受け入れられなかった。本人に対する不信感は、その思想に耳を傾けることさえ難しくしていた。

 

 そして野田首相が登場する。友愛も最小不幸社会も語らずドジョウの話をしたこの首相を理解する上で重要なのは、彼が就任後すぐに事務次官会議を事実上復活させたことである。民主党は同会議を官僚支配の根源と捉え、鳩山時代にこれを廃止していた。明治から続く会議の廃止は民主党の覚悟を見せる決断だった。ところが野田はこれをあっさりと復活させ、「皆さんの協力が必要だ」と官僚に訴えた。

 

 別に事務次官会議それ自体が悪質なのではない。なぜ野田首相は、官僚が政治家の指示で働くのは当たり前なのに、わざわざ会議を復活させてまで協力を求めたのか? 野田佳彦には理念も思想もない。彼は「民主党の議員みんなで仲良くやろう」程度の考えしかなかった。だから首相として何をどうしていいか分からず「助けてください」と訴えたのだ。

 

 実際そうなった。大飯原発再稼働にあたり髙村薫氏は野田首相を「ただのしゃべる人形」と呼んだが、野田首相は周囲の要求をまるで自分の決断であるかのように語るだけの首相だった。アメリカから要求があればTPPを、官僚から要求があれば消費税増税を、電力会社から要求があれば原発再稼働を受け入れる。

 

 これらの案件について国民の意見は分かれるだろうが、問題は首相が無思想な人間だということである。思想はあるが考察や政治的姿勢のない首相から思想もない首相へ…これが民主党政権三年間の総括である。思想をもった人物を党の周囲がサポートするという当たり前のことを始めない限り、日本政治は周囲に流され続けるだけだろう。

 

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