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【再掲】「東浩紀『一般意志2.0』書評」(『文學界』2012年2月号掲載)

『文學界』2012年2月号に掲載された

東浩紀著『一般意志2.0——ルソー、フロイト、グーグル』

の書評です。

 

 

 

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この本には三つの苦しさが刻まれている

東浩紀『一般意志2.0——ルソー、フロイト、グーグル』(講談社)書評

 

評者:國分功一郎

 

 本書は東浩紀が雑誌連載した論考をまとめたものである。その着想は次のように要約できる。

 グーグルなどのウェブサービスは、全世界の人々のネット上の行動履歴を巨大なデータベースとして蓄積している。これは人々の行動履歴である限りにおいて、その欲望を探るための手がかりになる。ところでフロイトは、人間の行動は無意識の欲望によって規定されているが、その欲望は精神分析家の分析を通じてはじめて明らかにされるものだと主張した。ならば、情報技術によって記録された人々の行動履歴を適切な仕方で分析できれば、社会そのものの欲望を明らかにできるだろう。そうして明らかにされた欲望を、かつてルソーが『社会契約論』の中で構想した「一般意志」として捉え、それに基づいて政治を行えないか? 一人ひとりの意志(特殊意志)の集合でもなければ、世論(全体意志)でもないものとして定義されるこの一般意志は謎めいた概念でもあるのだが、それが今やルソー本人は想像だにしなかった仕方でアクセス可能になっている。アップデートされた一般意志の概念、「一般意志2.0」を基礎に据えた新しい民主主義を提言するというのがこの本の試みである。

 本書を東の仕事の中に位置づけるためには少なくとも彼の三つの仕事を参照しなければならない。一つ目は彼のデビュー作『存在論的、郵便的』(一九九八年)。その中で東は、複数の可能性を強引に単一化する哲学(存在論)への抵抗を「郵便」というキーワードで描いてみせた。「差異の和」(ルソー)として定義される一般意志をそのままの形で肯定しようとする本書のアイディアは、同書に通底している。

 二つ目は『動物化するポストモダン』(二〇〇一年)。同書は「オタク」と呼ばれる、特殊な慣習をもったサブカルチャー愛好者の行動を「データベース消費」という言葉で説明した。同書はこの消費形態を、揶揄的とも肯定的ともとれない不思議な口調で語っていた。『一般意志2.0』は「データベース」を積極的な意味で捉え直している。

 そして三つ目。今述べたように『一般意志2.0』は、データベースにこそこれからの民主主義の可能性を見出している。しかし、そこに至るまでに東は一つの価値転換を経験しなければならなかった。問題になるのは、本人が書籍化を拒んだ『情報自由論』である(『中央公論』にて二〇〇二年~〇三年連載)。東はこの連載において「監視社会vs自由な社会」という対立図式を維持しつつも、情報の自由化のための策を探るという苦しい課題を背負う。そしてその成果は本にされなかった。

 『一般意志2.0』はこの「失敗」を経た上で書かれた。自由を巡る苦しい思索を経て、東は上の対立図式をもはや有効なものとは認めなくなったのである。

 本書の苦しさはそれだけではない。連載完結の直前に東日本大震災が起こる。東は本書の主題の有効性を確信しつつも、もはやそれまでのようには「未来社会についての夢」を素直に語れなくなったのだと述べる。そのため、連載原稿にはほとんど手を加えることができなかったという。おそらくはそれ故であろう、本書の議論は東の本とは思えないほどに話の進みが遅い。そこに見出されるのは、高濃度圧縮された情報を高速度で投げつけるいつもの彼のスタイルではない。連載を続けながら悩み、考え、思いついていく苦しい過程である。

 更に、そこに追い打ちをかけるようにして、本書の主題が強いる苦しさが付け加わる。というのも、この本が直面しているのは政治という主題の核心的な苦しさであるからだ。これを理解するためには、本書でも言及されているハンナ・アレントに言及しなければならない。

 アレントは『人間の条件』の中で、人間の行動を、労働/仕事/活動の三つに分類した。三つ目の「活動activity」は端的に政治の事を指している。アレントはこの「活動」の前提を、人間存在の複数性と考えた。人間はどうあってもたくさん存在している。この複数いる人間たちが一つの社会を作り、一つの決定を下さねばならない。それが政治だ。つまり政治とは、多と一とを結びつける営みに他ならない。

 多と一を結びつけるというのは基本的に無理である。では人類はどうしてきたか?「神様がこう言った」とか「王様がこう言っていた」といって多と一の齟齬を覆い隠してきた。だが近代に入りこうした体制は不可能になる。そして人類は、「人民がこう言っている」に従うことを決意した。

 これは多と一を結びつけるという課題がナマのままで政治の舞台に現れることを意味する。人民は複数の人間から成るからである。そこで様々な策が考案された。ルソーはその一つとして「一般意志」を仮構した。しかしこれはやはり仮構である。だからルソーは、「人民は一般意志を理解していないことがある」と述べ、「立法者」なる神のような存在を登場させ、彼を一般意志の伝達者とせねばならなかった。

 東は「立法者」の概念をルソーの理論の「バグ」のようなものだと述べている(90頁)。しかし評者にはそうは思えない。「立法者」が体現しているのは、政治というものが構造的に抱え込む無理難題(多と一とを結びつけること)の影であり、人間が複数存在している限り避けることのできない業のようなものだ。いかなる政治理論もそれを避けられない。本書も例外ではない。

 『一般意志2.0』は最終的に、人々の無意識の可視化したデータベースと熟議の組み合わせによる政治を提唱している。一般意志は、2.0であろうとものっぺりとした一枚岩ではありえず、したがってそこから政治的決定を自動的に導き出すことはできない。かくして我々は再び、多と一を結びつけるという最初の課題に連れ戻される。というか、本書を読む者は、政治が持つ核心的な苦しさに再び目を向けることを強いられるのだ。


 東が体験してきた思索の苦しさ、震災という状況が強いた苦しさ、そして政治という主題の苦しさ。本書は三重の苦しさに苛まれている。本書を正当に評価するためには、読み手はこの三重の苦しさの全てと向き合わねばならない。それらに向き合ってはじめて、本書を有効に生かす議論も生まれるはずである。