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【再掲】「「民主主義について考えるのを中断する」(『一冊の本』2012年5月号掲載)

朝日新聞出版のPR誌『一冊の本』2012年5月号に掲載されたエッセイの再掲です。

同じようなことをここでも書いてます(UTCP Juventus Afterward)。

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「民主主義」について考えるのを中断する

 

 

國分功一郎

 

 政治哲学では伝統的に政体を三つに分けてきました。一人が統治する君主制、少数人が統治する貴族制、全員が統治する民主制。現在の日本の「議会制民主主義」と呼ばれるものは、少数人の国会議員が統治しているわけですから、政体としては貴族制です。しかも、二世、三世の議員が増えていますから、本当に〝貴族〟制ですね……。

 大学で哲学を講じる際、政体が話題になるといつもこの話をする。学生は割と驚く。そして実は私自身も驚いている。我々は「民主主義」という言葉を平気で日常的に使っているが、それが何なのかははっきり言って今もよく分かっていないからである。

 読者はすぐに「直接民主制こそが真の民主主義ということか?」と思うだろう。しかし、当然そんなものは不可能である。カントという哲学者は、それは不可能であるどころか望ましくもないと言っている。全員で統治するとなると、実際には納得していない少数者がいるにも関わらず、物事が「全員」の名の下に進められることになる(「みんなで決めましたね」と言われることになる)。したがって民主制は必然的に専制的であり、政体は必ず代表制であるべきだとカントは述べている。

 「人々を代表する者、代議士が人々の意見をよく聞くべきだ」と意見するひともいることだろう。しかし、原理的に考えてみよう。人々の意見というのは多種多様である。だが、それを代表する代議士の数は限られている。しかも最終的な政治決定は必ず一つである。たとえば、消費税の現行税率を維持すると同時にそれを引き上げることはできない。政治というのは多数の者と一つの決定、すなわち多と一とを結びつける営みである。だからそこには必ず抗争が起きる。

 すると民主主義とはいったい何なのだろうか? 最終的には代表者たちが政治的決定を下している。にもかかわらず、「みんな」が決めたことにされる。みんなが選挙で選んだ代表が決めているのだから、みんなで決めたのだ、と。我々はカントが言っていた民主制の問題に日々直面している。

 「民主主義」が政治における決まり文句になったことには歴史的な理由がある。政治とは多と一とを結びつけることだと述べたが、多と一を結びつけるのは基本的に無理である。人類はそれが無理であることが分かっていたので、いくつかの方法を考えた。ほとんどのケースで採用されたのは、権威を利用するやり方である。「神さまがそう言ったから」「王さまがそう言ったから」。人類は長きにわたり、そうやって政治的決定の正統性を維持してきた。権威によって無理を押さえ込んできた。ところが、近代に入ると神さまとか王さまに頼ることができなくなった。だから「民衆がそう決めたから」と言い換えることにした。

 政治的決定を下す制度に大幅な技術革新があったわけではない。今も昔も、少数の統治者(今なら代議士)と専門家(今なら官僚)が決めているのである。「近代に入って民衆の名を引き合いに出すようになったからには、それまでとは違って民衆にたいそう配慮するようになったのではないか?」と思う向きもあるだろう。そういう人はマキアヴェリの『君主論』を読んでみるとよい。マキアヴェリが言っているのは君主もまた世論にたいそう配慮しなければ統治はできないという事実である。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』も参考になる。フーコーは前近代の権力というものが、暴力を誇示しつつも、どれほど民衆に配慮しなければならなかったのかを記している。

 こう考えると、もしかしたら「民主主義」という建前を得た近代の政治体制の方がよっぽど民衆に配慮していないという推測すら成り立つ。実際、日本では最近、「選挙で選ばれた政治家には全権が委任されているのだ」と堂々と主張する政治家が出てきている。

 「民主主義」というのはよくよく考えてみると、わけが分からない。しかし、だからといって私はこの言葉を捨て去るべきだとも思わない。実は19世紀以降、民主主義に対する批判はありふれていた。共産主義者は「議会はブルジョワが占拠していて、人民の意見が尊重されていない」と主張したし、ファシストは「議会でくだらない議論を続けるよりも、すぐれた指導者が人民を導くべきだ」と主張した。どちらの試みも失敗に終わったが、彼らの試みが実におぞましい結果を招いたため、20世紀、特にその後半部では「民主主義」という言葉を疑問視すること自体がタブー視されていた。そのようなタブーは解くべきである。そしてその上で、民主主義の問題点を直視し、新しい政治体制を考えねばならない。

 今、それについて私は一つのアイディアを持っている。ヒントになるのは先ほど紹介した「政治的決定の正統性」である。近代の政治哲学はそれについて熱心に考えてきた。だが、それについて熱心に考えるのをやめたらどうか、少なくともしばらく中断したらどうか、というのが私の提言である。

 「政治的決定の正統性」が問題にされるとき、実際に念頭に置かれているのは立法権のことである。特にルソーがその代表であろうが、近代の政治哲学は、神や君主によって基礎づけられて立法の根拠をどうやって民衆に見出すかに腐心してきた。とはいえ、多と一を結びつけるという政治の課題は全く変わっていないので、結局は「神」や「君主」が「民衆」に取って代わったに過ぎない。にもかかわらず、民衆は自分たちにこそ主権があると教えられているから、現実との矛盾に不満をもつ。この不満をどうにか解消しようと政治哲学等々が頑張る。今だと「熟議」なるものが注目されている。

 こうして議論が盛んになっている際に忘れられていることがある。それは我々にとってもっとも身近な権力、行政権のことである。具体的に考えてみて欲しい。道路を作る。保育園を作る。原発を作る。すべて行政が行うことである。行政は我々の生活に直結している。にもかかわらず、我々が「民主主義」と言う時に念頭に置くのはいつも議会のことなのだ。

 実は立法権の領域と行政権の領域を厳密に区別するのは難しい。行政は立法を超えて作用することがあり得る。行政の行いが憲法に違反しているのではないかとする訴訟があり得るのはそのためである。にもかかわらず、立法権の正統性ばかりに気を取られていた政治哲学は、行政をどう民主主義的に運営するかについてほとんど論じてきていない。民主主義と言う場合、議論されるのはいつも議会、立法権のことなのだ。

 立法権における民主主義の実現はあまりに難題である。確かに難題こそ考えるべきだが、難題に労力を割きすぎるとその脇にある問題に目がいかなくなる。実際、行政権の民主主義的運営という問題は置き去りにされてきた。ならば、難題への挑戦をすこし中断して、行政権に民衆が参加できる仕組みを考えたらどうだろうか?

 いまはそうした仕組みがなさ過ぎる。たとえば我々には役所の行いを公的に規制する権限が与えられていない。住民投票には法的拘束力はないし、パブリック・コメントは無意味。それこそ立候補して行政の長になるしかない。これのどこか「民主主義」であろうか?

 我々は立法権のことを考えすぎるあまり、行政権についての思考を置き去りにしてきた。ここに新しく民主主義を作り上げていくヒントがあると私は考えている。