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『千のプラトー』、全体主義的縮減

ゼミで

萱野稔人さんの『国家とはなにか』

を読んでいます。

フーコーの『監獄の誕生』を読破したので、

応用編的なものとして選択。

もう読み終わるところで、

最後のあたりの

「全体主義的縮減」を扱った章を今週読みました。

この章は萱野さんがかつて『現代思想』に

そのままのタイトルで書いた論文がもとになっています。

俺はこの論文をちょうどフランスにいたとき

萱野さんにコピーしてもらって読んだのを覚えています。

あのときはすこし衝撃でしたね。

それまでの俺の常識を覆された気がしました。

元の論文がないのでそこで萱野さんがこれをどういっていたかは

はっきりとは覚えていないんですが、

八〇年代以降の日本の思想界における

国家の捉え方を痛切に批判した箇所があります。

(研究室に本を置いてきてしまって、いま手元にないんで以下はうる覚え引用)

そこで全面的に援用されているのは

ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』

折しも、

先週(だったか?)

『千のプラトー』の下巻が河出文庫で出て、

全三巻がそろったところです!

というわけで、『千のプラトー』の話。

ドゥルーズ=ガタリは

公理という言葉で資本主義を特徴付けます。

これは

コードと区別されて出てきたものですね。

資本主義以前の経済体制は様々なコードによって特徴づけられる。

たとえば、ギルドとか村共同体とかには様々なコードが、規則があります。

コードとはこのように

限定された分野で、規定された要素間の関係を取り仕切るルールのことです。

「コードとは、それぞれに固有の分野に関係し、規定された要素間の特定の関係を言表し、超越的または間接的にしか、思考の形式的統一性(超コード化)に到達しない」(『千のプラトー』、河出文庫、下巻、二一〇ページ)。

たとえば、ゼミで話したんですけど、

商店街や学生街の食堂街などでは、カツ丼の値段はいくら以上でなければならないという類の取り決めがあることがあります。

もちろん、非公式にです。

これはコードですね。

こういうコードによって

商店街なんかが過剰な安さ追求で互いにつぶれてしまわないようにしているわけです。

資本主義というのは、そういうコードをぶち壊す脱コード化の流れとして規定されます。

安いモノが勝つわけです。

しかし、

そこでの財や貨幣の流れは好き勝手に流れているのではなくて、

その流れを制御する、

整流装置のようなものがある。

それが公理と呼ばれています。

コードと公理の何が違うのかと言うと、

コードが限定された分野で、規定された要素間の関係を取り仕切るのに対し、

公理は質的な限定を受けない要素を対象にするということです。

たとえば、

ギルドでの職人が織物作るとか、農村で米作るとか、学生食堂でカツ丼作るとか

そういう質的な限定を抜きにした、

人間の労働とか地代とか貨幣とか

そういった抽象的なものの流れを扱うわけです。

「あらゆるコードから公理系を区別するものは何か、はっきりさせなければならない。性質を特定されないまま、多様な分野で同時に無媒介的に実現される純粋に機能的な要素や関係を、公理系は直接的に取り扱う」(同前)。

で、一般に

資本主義には公理を恒常的に追加する傾向がある。

たとえばドゥルーズ=ガタリによれば、

ケインズ経済学やニューディール政策は、新しい公理の実験場だった。

第二次大戦後には

マーシャルプラン、援助や借款の形態、通貨システムの変形などが新しい公理として試みられた(同前、二二五ページ)

社会民主主義的国家は

「投資の領域や利益の源泉に関する公理の創設、添加の傾向によって定義されよう」(同前)。

だから次のように言われることになります。

問題は、自由か制限かでも、中央集権か地方分権化でもなく、

流れを制御する仕方である(同前)。

さて、

かつて

ドゥルーズ=ガタリの思想が紹介された頃、

この公理、そして公理の適用対象は

まるで資本主義が純粋に自身だけで用意するかのように理解されていました。

つまり…

資本主義は、

コードに縛られた諸要素を脱コード化し、

巨大な流れを生み出す公理系である云々…。

これはほとんど、

この脱コード化作用は

あらがえぬ普遍的な歴史の必然であり、

それ故に

資本主義は〝公理〟〝であり〟

乗り越え不可能だ

と言っているようなものです。

しかし、

上に見ただけでも分かるように、

資本主義の公理系は

明らかに

資本主義外の力によって用意されているわけです。

これはちょっと『千のプラトー』を読めば分かることなんです。

で、

萱野さんはこのあたりをきちんと読んで

それまでの日本のドゥルーズ=ガタリの読解、

そして

(日本の思想界での)資本主義の捉え方に

突っ込みをいれたわけです。

さて、

こっからが本番。

ドゥルーズ=ガタリは、

資本主義には恒常的に公理を追加する傾向がある

と言っていましたが、

それとは逆の傾向も見られるのだ、

とも言っています。

つまり、

「公理を除去し、引き算する傾向」

です。

これをドゥルーズ=ガタリは

全体主義国家の傾向であると言っています(二二五ページ)。

たとえば、

ケインズ経済は失業者対策を中心に据えた公理ですが、

そういうものはばっさり切り捨てる。

権利とか社会保障に関わる公理は切り捨てる。

その代わりに公理を、

「支配的な流れを調整する極めて少数の公理だけに制限」し、

国外資本への呼びかけとか、

原料や食料の輸出に向かう産業の援助とか、

そういうことばかりする。

これが「全体主義的縮減」です。

全体主義国家が行う公理数の縮減です。

支配的な流れに入らないものは

「野生状態に放置されるが、放置されるとはいえ、いつ逆に国家権力の凶暴な介入を蒙るかもしれない」。

たとえば、

労働力が不足しているときは、

外国人労働者の不法労働を見て見ぬふりする(「野生状態に放置」)

けれども、

都合が悪くなったら

国外追放(「国家権力の共謀な介入」)

というわけです。

だから、

全体主義国家というのは、

自由がないとか、人々を縛る規則に溢れているとか、

そういう風にイメージされるかもしれないけど、

全然違うのだ、と。

「全体主義国家とは、国家としての最大値ではなく、

〔…〕無政府状態の最小国家〔…〕なのである」(二二五ページ)。

というわけです。

さて、

萱野さんはこんなことを書いていました。

日本の思想界では、

市場を縛る規制が緩和されていけば、

人々が国家から自由になる

というようなことが語られていた。

国家の消滅すら夢想されていた。

しかし、これは全く資本主義と国家との関係を見誤っている。

なにせ、公理の縮減こそが

全体主義国家を特徴付けるのだから。

要するにかつては、

いまなら「新自由主義」と呼ばれる傾向が

本当に自由をもたらすと考えられていたんですね。

このあたり、また続きを書きます。

来週の金曜日は

萱野さんに呼ばれて研究会でフーコーの話をします。

まぁ終わったら少しここら辺の話もしたいですね。