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〈原子力の時代〉の哲学(3)

さて、前回、ハイデッガーが技術(テクネー)を

「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」

(フランス語ならpro-duction)

として考えていたということ、

そして、

それと区別される「現代技術」は、

その圏域を逸脱し、

自然を「挑発するHerausfordern」

ようになっているという点を紹介しました。

しかし、この

「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」

っていうテクネーの定義、

これがなんだかよく分からないわけです。

風車ならいいと言っているから、

ハイデッガーの技術論をそのまま現代に持ってきてもダメだろう

と前回書きました。

そうなんですけど、

この

「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」という表現で

ハイデッガーが何を言いたいのか、

それをもうちょっと実感をもってつかめないと

安易な批判で終わりになってしまうという気もするんです。

正直言って、

こういう肝心なところを説明してくれる本というのにはなかなか出会えない。

しかし、

出会えるときには出会えるものだ。

ふと、

自分の家の本棚に置かれていたこの本に気がつきました。

木田元『ハイデッガーの思想』岩波新書。

ずいぶん昔に読んだ本だったんですけどね、

その頃はハイデッガーにそんなに関心がなかったので

「勉強になったな」という程度の読後感でしたが、

読み直したところ、

理解のヒント満載でした。

やっぱ木田元すごい。

ハイデガーの思想 (岩波新書)/木田 元

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木田元の凝縮された記述を、

「〈原子力の時代〉の哲学」というこのエントリーの文脈に沿う形で

どこまで再現できるか、

はなはだ自信がないのですが、

がんばってみます。

事はハイデッガーにとっての最大の問題である

〈存在〉に関わるのですが、

木田元を読んで

この〈存在〉の問いが

自然観の問題と大いに関わっているのだということがよく分かりました。

古代ギリシア伝統の自然観というのは

植物の生成をモデルにしている。

どういうことかと言うと、

自然(ピュシス)は己のうちに生成の原理を備えていて、

それによって運動(キネーシス)していると言うんですね。

(まぁ、ふざけて言えば、古代ギリシア伝統の自然観とは「自然は萌えるもの」、〈萌えの自然観〉という感じです。デリダも昔、授業で言ってました、「ピュシス」ってはce qui pousse〔萌えるもの〕だって。)

すると技術(テクネー)は要するに何をするのかと言うと、

その生成の運動に外から力を貸しているだけだ、ということになる。

たとえば、

「われわれは彫刻家が大理石の塊からヘルメスの像を造ると言うが、ギリシア人にとってはこれは、やはり大理石の塊がヘルメスの像に成ること、つまりもともと大理石のうちにひそんでいたヘルメス像が余計な部分をそぎ落としてそこに立ち現れてくることだと受け取られていた」。

(木田元『ハイデッガーの思想』岩波新書、163ページ)

いやぁ、これがすごい分かりやすい、このヘルメス像の説明。

もうこれだけで、

テクネーがなんで

「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」なのか、

分かります。

自然(ピュシス)はそもそも内在的な運動の力をもっている。

そこに外から力を貸して、

こちらへと、つまり自分たちの方へと、

何かをもたらすのが、技術(テクネー)

というわけですね。

だとすると、

テクネーが

「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」

から逸脱してきている云々の話は、

テクネーのことだけで考えているとよく分からないってことになります。

だって

テクネーがハイデッガーの言うようなものであり得るのは、

植物の生成をモデルにした自然観(〈萌えの自然観〉)があるからですね。

だから、

テクネーが「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」じゃなくなってきてるというのは、

もう要するにこの自然観がなくなってしまったということの帰結であるわけですね。

テクネーのことだけを考えているとわかりにくい。

ピュシスの捉え方が重要なんですね。

さて、

この自然観の問題ですが、

ハイデッガーの考えでは、

壮大な歴史の中で起こってる。

どういうことかと言うと、

現代技術による「自然の挑発」の起源は

形而上学に、

もっと言うと、

プラトンにある。

なんか、すごい時間がかかっている感じがしますけどね。

どういうことかと言うと、

プラトンは、

自然がもつ運動(キネーシス)の一様態である

制作(ポイエーシス)に注目したのはよかった。

よかったんだけど、

奴は

この運動ないしは生成そのものじゃなくて、

この運動・生成の結果として出てくるものを特権視してしまった。

イデアのことですね。

たとえば制作(ポイエーシス)の末に、

ヘルメス像が結果として出てくる。

そこからヘルメス像のイデアが作られて、

で、それが、

あらかじめ天上界にあったという形で

本質として、

特権視される。

こうなると、

生成する自然が存在しているということへの驚き(タウマツェイン)も何もなくて、

イデアが大事だってことになる。

それどころか、

自然なんてものは、

イデアを実現するための単なる素材に過ぎない!

って話になる。

これをハイデッガーは

本質存在と事実存在の区別として説明しているそうです。

イデアという本質(存在)が最高位に置かれ、

生成する物が存在しているという事実(存在)が当然視される。

こうして生じたのが、

ハイデッガーの言う

かの有名な

〈存在忘却〉

らしいです。

本質ばっかりが重視されて、

物が、自然が、存在しているってことへの驚き(タウマツェイン)が忘れられる。

自然は単なる無機的な素材に堕し、

自然が持っている生成の原理には誰も目を向けない。

自分たちの制作(ポイエーシス)のために利用すればいい

って考えになる。

ここから人間中心主義も出てくるわけです。

ハイデッガーがヒューマニズムに対して批判的だったのは有名ですね。

なお、

木田元によるこの辺りの解説としては

他に、

『哲学と反哲学』の第五章「ハイデガーと「形而上学」の歴史」も大変勉強になります。

哲学と反哲学 (岩波現代文庫)/木田 元

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さて、こう見てみると、

ハイデッガーの言う〈存在〉ってのは

自然観の問題と強く結びついていることが分かります。

そして、

自然の征服とか、

人間の思い上がりとか、

そういったものがここから考察できるようにも思います。

最後にプラトンについて。

存在忘却の自然観の起源にはプラトンがいるってことになるわけですが、

実際、彼はギリシア伝統のそれとは著しく異なる自然観の持ち主だったそうです。

俺らはギリシア哲学って言うとプラトンを思い出すわけですけど、

むしろ彼はその中で異色、異教的だったと。

そのことを指摘しているのがアリストテレスで、

アリストテレスによればプラトンは、

多くの点で「ピュタゴラス教団」に従っており、

で、この教団の教えは

ギリシアで自然を論じていた人たちのとは著しく異なっていた、と。

(この辺りの事情については、ジョン・バーネット『初期ギリシア哲学』(以文社)の第七章がすごくおもしろいです)。

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ハイデッガーはアリストテレスを徹底的に読むことで『存在と時間』を準備していきますが、

なんでアリストテレスだったかというと、

プラトンよりもアリストテレスの方が

ギリシア伝統の自然観に近かったからであるようです。

すると

このギリシア伝統の自然観というのが何なのか、

ハイデッガーが言っている「ギリシア伝統の自然観」は本当に存在したのか、

そこら辺が問題になってくるように思います。