プレビューモード

『奇跡の丘』、運動イメージ/時間イメージ、雑誌、ストーリー、人文系の研究

今日、正確に言うと昨日、

勤務先の高崎経済大学で

パゾリーニの『奇跡の丘』とデイヴィッド・フィンチャーの『ファイトクラブ』を見せて

解説するという授業をやりました。

今年から

休講したら補講しなければならなくなったので

仕方なく

土曜日の授業です。

12時40分から6時過ぎまで

ぶっ続け。

参加してくれた学生のみなさん

お疲れ様でした!

『ファイトクラブ』は置いておくとして、

『奇跡の丘』ですが

これは

『聖書』の「マタイによる福音書」を映像化したものですね。

すばらしいです。

ああいう映像をみていると

胸がすうっとする。

学生にはイタリアのネオレアリスモの話をして

そこから、

どうしてこの映画の映像が

普段みんなが見ているハリウッド映画のようなもののそれと違っているのかを

説明してみました。

実際には俺は映画は全然詳しくないので

ドゥルーズを援用しているだけですが。

『シネマ』に出てくる運動イメージ/時間イメージという区別について解説。

たとえば、

チャップリンの『街の灯』だと

かわいそうな目の見えない女の子が出てくる。

いかにも

「たすけなければならない」

そういう存在として出てくるわけです。

観客は彼女を助けたいと思い

チャップリンも彼女を助けたいと思う。

そして実際に助ける。

つまり

絵そのものにメッセージが書き込まれており

それを通じて観客が主人公に同一化する。

メッセージを知覚した主人公=観客は

そこから行動=運動する。

これが大雑把に言うとドゥルーズの言う運動イメージですね。

ところが

ドゥルーズによれば

第二次大戦後

全く違う質のイメージが映画の中に現れる。

ネオレアリスモは例えばデ・シーカの『自転車泥棒』なんかにおいて典型的なように

社会派のテーマを選んでいるということで最初定義づけされたらしい。

それに対してアンドレ・バザンが

それは違う、ネオレアリスモは新しいイメージを提示しているという点において捉えられねばならない

と言うわけです。

ドゥルーズはその新しいイメージを

時間イメージと呼びました。

ここで「時間」とは世界そのものを指していると考えてよい。

何かメッセージや意味が書き込まれたイメージではなくて

世界そのもののイメージを提示しているのだ、と。

そこにはもちろん理由がある。

『自転車泥棒』に描かれた、失業に労働者たちが苦しんでいる世界では

何をしてよいのか、何をすればよいのかなど、誰にも分からない。

『奇跡の丘』もそうでしょう。

イエスというある途方もない思想家・活動家がいた

それ以上のことを何も言えない。

そうした事件・状況をそのまま映し出す他ない。

「かわいそう」→助ける

といった感覚=運動の図式など出てくる余地がない。

だから時間イメージが全面に押し出されてくる。

まぁ、こう考えると、一回りして

時間イメージが前景化してきたことと

社会派のテーマが前景化されたこととは

内的な関連があるような気もします。

あれを観ると

本当にイエスという人は過激だなと

ユダのような人物が出てくるのは必然だと思います。

ドゥルーズは

イエスには自殺的なところがあると言っていますが、

そこまで掟や律法を突き詰めて行く態度は

人間的な弱さを少しでも保持している者には

共有できない。

そのあたりがものすごくよく描かれていますね。

あれはカトリック教会から高い評価を得たそうですが

すこしもキリスト教擁護の映画ではないと思います。

ほとんど

イエスのドキュメンタリーという気すらしてくる。

さて、

話題は変わりますが

それにしても

参加学生が少ない!

「補講だから出なくても大丈夫です」

とは言ったけどね。

でも、高経で映画を解説付きでぶっ続けでみる授業なんてあんましないわけで

学費払っているんだから

活用しようよ

ってちょっと思います。

いま学生に接していると

損をしないようにという気持ちはすごくつよいのだけれど

得をしようという気持ちがすごく弱い気がする。

たとえば休んでプリントをもらえなかったときはきちんと取りに来るんです。

それはいいんだけど、

こういうオプションがあると

〝取り〟に来ようとしない。

もったいないよ!

もったいないばあさんがでるよ!

映画見に来て

「國分の解説全然おもしろくねーよ!」

でもいいんです!

もちろん!

今回パゾリーニについてちょっと話をするために

昔の『批評空間』に載っていた四方田犬彦氏と浅田彰氏の対談「パゾリーニ・ルネサンス」を引っ張り出して読む。

おもしろかった。

前に読んだ時もそうだったけど。

で、

久しぶりに『批評空間』を読みました。

あの雑誌はそれなりの影響力をもっていて、

だからあれが休刊になったとき

いくつも思想系の雑誌が創刊されました。

どれも高い質のものだったし、継続しています。

ただ、

それらが創刊されたとき、

いま思想系の雑誌は難しいかなぁ、という気もしました。

なんというか

いまの思想界に大きなストーリーがないんですね。

雑誌はそういうストーリーがあるときに

それにそっていろいろ記事を載せていく、論文を載せていくというやり方でいくと思うんだけど

それがなかなか難しい。

たとえば昔は

「フランス現代思想」というものすごい強いストーリーがあった。

だからそれにそっていくらでも雑誌を作れました。

でもそういうストーリーがないと

どうしてもテーマが単発的なものになりがちです。

あのころからずっと思っているけど、

いまは単行本が必要とされていると思う。

そしてぽつぽつそういう単行本が出てきていると思う。

僕が言いたいのは

論文の寄せ集めではない

一冊の中に筋が通っている、ストーリーがしっかりしている単行本です。

で、

そういうものが要求されている今って言うのは

全然悲観すべき時期ではなくて

チャンスなんだと思う。

だって大きなストーリーに飲み込まれずに

自分の思いのままにストーリーを提示していける訳ですから。

それに俺等の世代はそういうことができる人たちがたくさんいます。

人文系でも博士論文を書くのがいまや常識になっています。

以前、というか15年ぐらい前までは全然違ったんですね。

博論を書く人はほとんどいなかった。

博論をかけるということはそれぐらいの長さのストーリーを構築できるということであり

そうしたものを構築しなければいけないという気持ちのなかで勉強するということです。

これは俺等の世代が共通してもっている意識であり、本当に歓迎すべきものです。

というわけで、

結論ですが、

今後、

間違いなく、

人文系の研究はよくなっていきます。

これまでとは違うからです。