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〈子どもへの生成変化devenir-enfant〉——絵本フェアのリスト(再掲)

さて、夏休みですね。

夏休みと言えば読書であります。

五月に

紀伊国屋書店新宿店にて

俺のセレクトした絵本フェアというのをやりました。

好評をいただきましたので、

そのリストをそのままにしておくのはもったいないかなと思い、

ここに公開する次第です。

フェアの模様はここで。

上のサイトではフェアに際して作っていただいたキレイなデザインの冊子もダウンロードできます。

今年の前半はこのほかに

二つの選書フェアをやらせていただきました。

その二つの内容も

順次ここで公開していきたいと思います。

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絵本セレクション

「こどもへの生成変化 devenir-enfant」によせて

 民話研究者の大川悦生氏は『こぶとり』(こぶとりじいさん)の解説で大変興味深いことを言っています。

 この話はいつの間にか善いじいさんと悪いじいさんの対比にされてしまい、今では、「だから、人まねなどするものではない」という教訓話として理解されている。しかし、そうして理解された話は「民話のおちぶれた姿」であろう(『こぶとり』、ポプラ社、解説「ふたりのじいのこと」)。

 なぜ教訓話は「民話のおちぶれた姿」なのでしょうか? それはおそらく、教訓話はこどもに〝読む〟ことを許さないからです。おとなの教えに、こどもがただただ従うことを強制するからです。

 民話を読んでいると実に不条理なことが起こります。『こぶとり』に出てくる隣のじいさんは、歌は下手で乗りも悪い、おまけに口べたであっため、天狗の気に障って頬にコブをくっつけられてしまいます。不器用な人が災難にあうわけで、このじいさんはどちらかと言えば同情の対象です。

 ではなぜこの話が、善いじいさんと悪いじいさんを対比する教訓話に改変されてしまったのでしょうか? それはおとなたちがこの「不条理」に耐えられないからです。おとなたちは必死の努力で世の中のルールに従って生きてきています。そうすれば報いがあると思ってそう生きてきています。だから、その信念を否定するような話には耐えられないのです。

 しかしこどもたちはどうでしょうか? こどもたちはそうした既存の秩序には巻き込まれていません。いや、正確に言えば、巻き込まれる途中にあるのですが、それでもおとなとはモノの見方が大きく違います。おとなたちは言わば、教訓話を作りだすことで、こどもをその秩序に引きずり込むことに躍起になっているのです。

 今回の絵本セレクションのタイトルとして掲げた「こどもへの生成変化devenir-enfant」とは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリという哲学者たちがその著書で使っていた言葉です。ちょっと堅い言葉ですが、もっと柔らかく翻訳すると、「こどもになること」となります。

 「こどもになること」とは、こどものように振る舞うことではありません(ドゥルーズとガタリは、「こどもへの生成変化」はこどもを模倣することではないと言っています)。それは先に述べた、大人が巻き込まれてしまっている既存の秩序から、ふと離れてしまうことに他なりません。

 ドゥルーズとガタリによれば、「こどもになること」はあらゆる創造行為のカギです。なぜなら、創造行為とは新しいものを生み出すことであり、新しいものは既存の秩序からふと離れることによって生まれるからです。

 それは実はそんなに難しいことではないのです。たとえば『こぶとり』を読めば、教訓話とは全く異なる世界観が得られるでしょう。絵本をこども向けだといって見向きもしない人がいたとしたら、その人は創造行為のことが分かっていません。こども向けだからこそおとなも読むべきなのです。それは「こどもへの生成変化」の可能性を与えてくれるからです。そしてもちろん、こどもにもすぐれた絵本が与えられるべきです。ドゥルーズとガタリは、こどももまたこどもへと生成変化する必要があると言います。こどもはおとな向けの秩序に巻き込まれつつあるからです。

 こどもになることは、こどもであることとは違います。こどもは単にこどもであるのですし、おとながこどもであるようになったら、それは単なる幼児退行です。ですから、「こどもへの生成変化」とは、ふと訪れる出来事のようなものとして理解するとよいと思います。絵本を読んでいると、ふと「こどもになる」ことがあるのです。

 絵本作家の加古里子氏は、こどもにはこどもだからこそ最高水準のものを与えなければならないと言っています。私はこの意見に全面的に同意します。しかし、そのようなものを見つけるのはそうやさしいことではありません。残念ながら、教訓を押しつけるもの、そして、おとなが勝手に作り上げたこどものイメージを押しつけるものが大変多いからです。

 私自身、娘がいますが、絵本を買い始めた当初、少々苦労しました。よいと思えるものになかなか出会えませんでした。ただ、仕事柄、本に向き合うことが多いので、その経験を活かしながら絵本選びを続けていった結果、すこしずつよい絵本が見つかり始めました。

 今回の絵本セレクションは、その時の経験が少しでも他の方の絵本選びの参考になればと思い企画したものです。私は哲学を勉強している者であって絵本の専門家ではありませんので、セレクションが偏っているとのご意見もあろうかと思いますが、むしろ哲学を勉強している者として納得のいく本を選んでみた、そのようなセレクションとしてご理解いただければ幸いです。

 また、お子さんのために絵本を選びたいという方や、そもそも絵本が好きであるという方だけでなく、哲学や思想の分野に関心をもっているひとにも絵本のおもしろさを発見してもらえればという気持ちもあります。私自身、こどもができるまで絵本には全く関心がなかったのです。いまでは絵本の大ファンになっています。お立ち寄りくださったみなさん、一緒に絵本の世界を発見していきましょう。

國分功一郎

五味太郎、『おじさんのつえ』、岩崎書店

こどもは形で思考できる。ちょうど、コンパスの形はアルファベットのAにそっくりだから、アルファベットのAの起源はコンパスだと大まじめに語る映画作家ジャン=リュック・ゴダールのように(平倉圭『ゴダール的方法』インスクリプトを参照してください)。五味太郎は形で思考しながら、そこに物語まで付与してみせる。つえは電話にもケーブルカーにもなるのだ。

五味太郎、『みんながおしえてくれました』、絵本館

みんながおしえてくれる。だから、どうみてもりっぱなひとになるわけです。こういうお話をこどもが素直に聞いて大笑いするような社会であってほしい。こどもがこの本を読んで「ここに書かれているのはウソだ」と思うようなことがあってほしくない。

五味太郎、『さる・るるる』、絵本館

五味太郎、『さる・るるる―ONE MORE』、絵本館

五味太郎、『さる・るるるspecial』、絵本館

韻を踏むことがどうして大切なのかがよくわかる。この本は黙読しても意味がない。ぜひ一人部屋のなかで、あるいはこどもに向かって、声を上げて読みたい。「さる、~さる」という単純な形式だけで物語をつくっていくことで、読者の言葉への注意を高める、そのような作りになっている。それにしても、「さる、リハーサル」には脱帽。

五味太郎、『かくれんぼかくれんぼ』、偕成社

五味太郎はどうして〈こどもになる〉ことができるのだろうか。繰り返しと視点の移動。そこに淡い色合いの絵が重ねられ、読者はうっとりとした気分になる。これもやはり黙読ではおもしろさが分からない。ぜひ一人部屋で、あるいはこどもにむかって、声を上げて読んでいただきたい。

五味太郎、『ニトニツイテ』、架空社

「ヒト」の本質の一つがここに書かれている気がする。それによってこの本は異様な不気味さを醸し出している。しかもその「ヒト」の絵が不気味である。不気味であるのだが、どこかひょうきんでもあって、それが再び不気味さを増大させる。「ヒト ハ ワスレル」、「ヒト ハ クリカエス」…。よく言われることだけど、説得力があるなぁ。

五味太郎、『もみのきそのみをかざりなさい』、文化出版局

船に「とびなさい」、花に「おしゃべりをやめなさい」。あり得ない命令が次々にささやかれる。とはいえ、それらの命令は決して無思慮に並べられているのではない。自転車に「おもいだしなさい」、猫に「いいかげんにしなさい」と述べるところで大きな笑いが起こる。そしてその笑いの後、タイトルになっている「もみのき そのみを かざりなさい」が現れ、静かに終わりへと向かっていく。ナンセンス文学にはこのすがすがしさはない。だからこれはナンセンスではない。

長新太、『ちへいせんのみえるところ』、ビリケン出版

五味太郎が言葉との出会いを大切にした絵本作家だとすると、長新太は徹底して絵にこだわった絵本作家だと言えるだろう。村瀬学は『ちへいせんのみえるところ』において、長新太の「〈絵〉主義」が頂点に達していると述べている(『長新太の絵本の不思議な世界——哲学する絵本』晃洋書房)。この絵本では場面の変化を説明する台詞は一切ない。すべてを絵で引っ張っていく絵本である。ぜひ繙いていただきたい。

長新太、『ぼくのすきなおじさん』、童心社

長新太の絵本の中ではそんなに有名ではないものかもしれないが、とにかくおもしろいのでぜひとも推薦したい。人間離れした石頭をSF的に描いたものだが、それが「おじさん」であるところがいい。おじさんというのは微妙なポジションである。近いともいえるし、遠いともいえる。しかしその微妙なポジションゆえに、こどもはおじさんに親しみ、いろいろなことを話す。

長新太、『なにをたべたかわかる?』、絵本館

優れた絵本作家には不気味さがつきまとっているように思う。つまり、口当たりのよいメルヘンでは描ききれない、〈現実〉との接触がいつもある。食べて食べられての運動を描いたこの本はとても不気味である。しかし不気味なのに笑ってしまう。

谷川俊太郎(文)、長新太(絵)、『えをかく』、講談社

もともとあった谷川俊太郎の詩に長新太が絵をつけたもの。肉の腐った男の死体に並んで、ライダーのお面が現れる。それが世界というものではないだろうか? そんな世界を生きながら、周囲の空気にあわせて戦争批判してみるのでもなく、悲しんでいないとバツが悪いから悲しんだフリをするのでもなく、ただ「えをかく」こと、それが大切ではないだろうか?

谷川俊太郎(文)、和田誠(絵)、『ともだち』、玉川大学出版部

読み進めていくと最後で驚くと思う。谷川俊太郎はこの手の、突然リアルな話を持ち出すのが好きだが、ここでもそれが大変効果的に遂行されている。「あったことがなくても、このこはともだち」。確かにそうだ。でも、普段はそうなっていない。どうしたらいいだろう。これはデイヴィッド・ヒュームが「共感」という現象を通じて考えていた問題だった。

堀内誠一(絵)、谷川俊太郎(翻訳)、『マザー・グース・ベスト』、全三巻、草思社

谷川俊太郎の翻訳は本当に見事。この有名な英国の伝承童謡が日本語の中で言葉としての生命を獲得している。その証拠だろうか、この本を読み聞かせると、こどもはすぐに暗記してしまう。娘が「ジャックがたてたいえ」をすらすらと暗記しているのを聞いた時には驚いた。

おおかわえっせい(文)、おおたこうし(絵)、『こぶとり』、むかしむかし絵本18、ポプラ社

当たり前のことだが、昔話が活字化されるにあたっては、活字化する作家の意図が大きく反映されて物語に手が加えられる。しっかりした知見と思想の持ち主が活字化しないと、昔話はとてもつまらないものになる。大川悦生は本書の解説の中で、『こぶとり』の話は「人まねをするものではない」という教訓話だと思われてきたが、そうした理解は「民話のおちぶれた姿」に他ならないと述べている。昔話には、口当たりのよい道徳や教訓とは全く相容れない力強さがある。その力強さを現代人(のおとな)は「不条理」と言って片付けようとする。彼らおとなは、「道徳と教訓に従わねばならない」という強迫観念を植え付けられているから、それに反するものが許せないのである。しかしこどもはそうした力強さを難なく受け止める。彼らにはそうした強迫観念がないからである。もしも、幼くして既にそうした強迫観念に取り憑かれている幼児がいたとすれば、それはとても不幸なことだ。

おおかわえっせい(文)、わたなべさぶろう(絵)、『三ねんねたろう』、むかしむかし絵本8、ポプラ社

私はこどもにこの本を買い与えるまで「三ねんねたろう」の話を知らなかった。そして寝床でこどもにこれを読み聞かせながら衝撃を受けた。雨が降らないから火を焚いたり、神に祈ったりする農民たち。そこにはまさしく私の研究する哲学者スピノザが描き出した迷信の発生メカニズムがある。ねたろうの寝てばかりの生活とは、このメカニズムに引きよされつつも、どうもそこに入りきれない、彼の逡巡が生み出したものだ。そして最後にねたろうは、いきなり起き上がり、人にバカにされつつも水路を掘ることで、迷信の発生メカニズムがもたらす〝なれ合い〟と〝諦念〟の構造(精神分析的に言えば、「享楽の共同体」)を破壊する。なんと感動的な結末だろうか。水路を掘る作業をこどもたちが手伝うところも感動的だ。社会を変えるのは、ねたろうとこどもたちに他ならない。

加古里子、『どろぼうがっこう』、偕成社

「こどもたちに与えるものは、こどもたちだからこそ最高ですぐれた水準のものであるべきだ」というのが加古里子の信念である。私も完全に同意だ。作者によれば『どろぼうがっこう』は最初は雑な手書きの紙芝居で、デッサンも構図もいいかげんなものであったのだが、それにも関わらずこどもたちには圧倒的に受け入れられたらしい。読んでみればその理由はよく分かる。ここに盛り込まれた内容の高さは生半可ではない。とにかく、くまさかとらえもんせんせいが生徒を叱るところは本当におかしくて、笑いがとまらない。

加古里子、『にんじんばたけのパピプペポ』、偕成社

よく言われることだが、加古里子の絵本の特徴はモブシーン(群衆を描いた場面)にある。パピプペポの音を使って名付けられた20人のこどもたちがケンカしたり、力をあわせたりするシーンを読んでいるこどもたちはどう眺めるだろうか。ひとりひとりを眺めて話をするだけでどんどん時間がたってしまう。にんじん嫌いのこどもににんじんを食べてもらうために書いたお話だそうだが、そうしたメッセージよりも絵のおもしろさの方が前にきている。寝る前よりも、昼間にあーだこーだ言いながらこどもと一緒に読むのが楽しい。

加古里子、『からすのパンやさん』、偕成社

同じくこの絵本もモブシーンが圧巻である。いろいろなパンが描かれたシーンもおもしろいが、火事と間違えてみんながパン屋に駆けつける最後のシーンがすばらしい。一匹一匹のカラス(ひとりひとりのカラス?)にきちんと職業が設定されていて、「これは何をしているカラスだろう」と思いをはせるだけで、これまた時間がすぎていく。

加古里子、『あなたのおへそ かこさとしからだの本1』、童心社

性教育の本である。加古里子はこのテーマで本を出すことにためらいがあったという。それにもかかわらず性教育の本を出したのは、その類の本がどれもこどもの気持ちを無視して書かれていることに気づいたからだそうだ。確かに、この本も性教育というよりは、端的にお話としておもしろい。最初に唐突に四本足のニワトリが出てくるところなど、性教育とどういう関係があるのか全く不明であり、笑わずにはいられない(もちろん哺乳類ではないと言いたいのだろうが)。まずは単なる読み物としてお勧めしたい。あとこどもの絵が妙にかわいい。

中脇初枝(文)、酒井駒子(絵)、『こりゃ まてまて』、福音館書店

この絵本の雰囲気はなんと言ったらいいのだろう。文字の形、大きさ、回転具合がなんともおかしい。この活字を見ていると、自然と口から、「こりゃ まてまて」と出てきてしまう。酒井駒子の絵そのものは心温まるものなのに、「こりゃ まてまて」のおもしろさのせいで、コミカルなものに見えてくる。とかげがこどもの又の間をくぐるところは爆笑だ。

コナン・ドイル(原作)、宮崎駿(絵コンテ・演出)、『名探偵ホームズ』I、徳間アニメ絵本、徳間書店

コナン・ドイル(原作)、宮崎駿(絵コンテ・演出)、『名探偵ホームズ』II、徳間アニメ絵本、徳間書店

言わずと知れた宮崎駿の手がけたテレビアニメだが、映画作品に比べるとあまり知られていない気がする。あの高度な推理ものであるホームズを、実に見事にドタバタのスラップスティックに仕立て上げた。こういうアニメをテレビで出来ないものだろうか? たたかってやっつけてという話は私も好きだが、今のこども向け番組はそれしかできなくなっているような気がしてならない。このアニメ絵本は、アニメ版をうまく一冊にまとめてあり、これだけで十分に楽しめる。テレビでも再放送してもらえるとうれしいのだが。

小林清之介(文)、横内襄(絵)、『新版ファーブルこんちゅう記』、全7巻、小峰書店

こどもが好きな生物ものというと、シートン動物記とファーブル昆虫記が代表だろう。ここでは強い確信をもって、後者を推薦したい。シートンは動物を扱っているというのにどうも人間中心主義的なところがある。動物に対する人間のひどい仕打ちもなんとなく正当化されてしまう。それに対しファーブルはただただ昆虫の生態を描いている。人間など出てこない。

安野光雅、『天動説の絵本』、福音館書店

高学年向けの絵本であり、内容は高度だが、とても親しみやすい絵と口調で説明してくれている。おとなもこれを読むと天動説・地動説について頭が整理されるだろう。安野光雅は地動説の驚きと悲しみを描きたかったと言っている。地動説にいま心動かされる人がいるということに、ささやかな感動を覚えざるを得ない。

宮澤賢治(文)、小林敏也(絵)、『銀河鉄道の夜』、パロル舎

なんと綺麗な本であろうか。テキストの校閲もしっかりしている。『銀河鉄道の夜』はおそらく多くの人がこどもの頃に読んでもらったり、読んだりしたはずである。だが、はっきりいって、難しかったのでよく覚えていないというのが実情だろう。いまこそ読み直して欲しい。しかも絵本で。

岸田衿子(文)、渡辺学(絵)、『にほんたんじょう (復刊・日本の名作絵本)』、岩崎書店

古事記に描かれた日本誕生の神話を絵本にしたもの。巻末の解説では丁寧に、かつては「神と国体と天皇を結びつける根拠」にされたこともあるが、いまやこの民話風の物語を歴史的事実として考えるひとはいないと書かれている。政治的に利用したり、逆にそれを理由にこの物語を忌避したりするのは本当にばかげている。古代人の想像力はそんな小さな器には収まりきらない。いざなみ「まいにち千人殺すぞ」、いざなぎ「それならまいにち千五百人こどもを増やすぞ」。

油野誠一、『絵本古事記・神々の風景』、JULA出版局

こちらはより年長の人にお勧めする古事記の絵本。はやいころから神話に慣れ親しむことは、いびつな母国感情の造成を避けるために大切なことではないだろうか。戦後民主主義はそのことが分かっていなかった気がする。

マリ・エレーヌ・デルヴァル(文)、ユリーズ・ヴェンセル(絵)、関根敏子(訳)、『聖書ものがたり』、ドン・ボスコ社

当然だが、ユダヤ・キリスト教文化圏では聖書の物語は人々の血となり肉となっている。その物語にもやはり幼い頃から親しんでおきたい。おとなもまた、おとなとしてこの物語を読んでみて欲しい。自然界で生きるという大変な課題を背負った人類が、どうやってその困難を解釈し、受け入れようとしてきたのか、それがこの聖書の物語からよく分かる。自然界の掟が厳しいものであるならば、人間はそれを神による罰と考えないではいられない。

フランツ・カフカ(原作)、たぐちみちこ(文)、田口智子(絵)、『カフカの絵本』、小学館

おとなは意味を求めてしまう。特に、善悪という意味は執拗である。カフカは意味ではなくて、寓話(アレゴリー)を描く。ベンヤミンが言っているように、アレゴリーは理解するまでに時間がかかる。意味を押しつけない、なんとなく分かってくるまでに時間がかかる、こどもたちにはそういう物語をこそ提供すべきではないだろうか。カフカが絵本になるのは実にまっとうなことだ。

アナイス・ヴォージュラード、平岡敦(訳)、『オオカミと石のスープ』、徳間書店

この絵本を初めて知ったのはフランスの本屋でのことだった。実に驚いた。作者ヴォージュラードについては何も知らないのだが、この人は、寓話を創造できる、たぐいまれなる現代の絵本作家である。童話ではいつも悪役のオオカミ。だが本書では他の動物がオオカミと出会い、オオカミその人を発見していく。しかし、オオカミは全くの善人なのかどうか、そのあたりはよく分からない。なんといっても、オオカミの表情がさまざまな解釈を許すように描かれている。ぜひ手にとっていただきたい。

マーガレット・ワイズ・ブラウン(文)、バーバラ・クーニー(絵)、うちだりさこ(訳)、『どこへいってた?』、童話館出版

ワイズ・ブラウンの言葉はゆっくりと音読するのに向いている。「うさぎ うさぎ なぜ はしる?」 なんのことはない文だが、こうやってゆっくりと読める言葉というのは実は意外に少ない。バーバラ・クーニーの絵もすばらしい。実はよく見るとひとつひとつの絵に細かな情報が書き込まれている。たとえばひきがえるが手にもっているのは何か? 散歩の途中なのになぜそれをもっているのだろうか? そうしたことを考えるだけでも楽しい。

マーガレット・ワイズ・ブラウン(文)、レナード・ワイスガード(絵)、『ワイズ・ブラウンの詩の絵本』、フレーベル館

同じくこちらもゆっくりと音読したい。しかしこの詩は音読するにはなかなか手強いだろう。読み聞かせの訓練本に向いているような木がする。ワイスガードの絵はどこか水墨画のような趣がある。「まるはなばち」のページの木がすばらしくてずっと見入ってしまった。

デルモア・シュワルツ(文)、バーバラ・クーニー(絵)、『ちいちゃな女の子のうた わたしは生きてるさくらんぼ』、ほるぷ出版

この本はおとなに読まれてきたのだろうか、こどもに読まれてきたのだろうか、分からない。「おとなたちは まちがっているの。/ おとなたちは まちがっているの」。こうはっきり書いてある絵本をあまり読んだことがない。主人公の少女は何か過酷な現実から逃げだそうとしているようにも読める。もしかしたらこの絵本は助けを求める少女のSOSなのかもしれない。その意味ではおとなが読むべきだろうか。絵はバーバラ・クーニーであり、本当にすばらしい。しかし「わたしは いつも わたしでしょう」と言って海が描かれていても、何か悲しい。なぜだろうか。

エドアルド・ペチシカ(文)、ズデネック・ミレル(絵)、『もぐらとずぼん』、福音館書店

エドアルド・ペチシカ(文)、ズデネック・ミレル(絵)、『もぐらとじどうしゃ』、福音館書店

このモグラシリーズは私の世代では読んだ人が多いのではないだろうか? チェコの絵本がもつあの独特のタッチが、一度見たら忘れられない。人間の顔が描かれないのはなぜなのだろうか? しかもどこか寂しさが漂う。私は幼い頃、『もぐらとじどうしゃ』しか読んだことがなかった。ぜひ、『もぐらとずぼん』もあわせて二冊で読んで欲しい。要するに農業と工業の話なのだ。

レオ・レオーニ、『フレデリック——ちょっとかわったのねずみのはなし』、好学社

いわずと知れたレオ・レオーニの名作。フレデリックは働いていないように見えるかもしれない。でも、世間一般で推奨されている仕方で「働く」だけが働くことではない。フレデリックにきちんと居場所を与えられる社会がいい社会ではないだろうか。

レオ・レオーニ、『スイミー——ちいさなかしこいさかなのはなし』、好学社

『フレデリック』もそうだが、レオ・レオーニの作品はすこし変わった者、もしかしたら仲間はずれにされてしまう者への視線がある。そしてその変わり者には何ができるのかををじっくりと見ていこうとする。だから勇気をくれる。なお、この『スイミー』の絵は今見ると少々ピンぼけの感じがある。印刷のせいだろうか。しかし逆にそれがスイミーのとぼけた表情とあいまって魅力的なページを創り出している。

エドワード・ディゾーニ、『時計つくりのジョニー』、こぐま社

ジョニーはその才能と熱意を親になかなか理解してもらえない。こどもはいつだってそうだ。でもジョニーは幸運だった。彼を理解してくれる友達が一人だけどいたし、鍛冶屋さんも彼の気持ちを分かってくれたから。親じゃなくてもいい、誰か理解してくれる人がいればいいのだ。

レイモンド・ブリッグズ、『スノーマン』、評論社

有名な言葉無し絵本。ある意味で死について考えた本ではないだろうか。

新妻昭夫(文)、杉田比呂美(絵)、『ダーウィンのミミズの研究』、たくさんのふしぎ傑作集、福音館書店

ダーウィンは、ミミズが地面をかき回しているのではないかという仮説を抱き、それを検証するために壮大な実験に乗り出した。その実験の痕跡を探しに日本人の研究者がイギリスにまでいく物語。この絵本とあわせて、ぜひ、ダーウィン『ミミズと土』(平凡社ライブラリー)を読んでいただきたい。知性、理性、人間、動物…そうしたものについてのイメージが一変する。

ピーター・シス、『生命の樹 チャールズ・ダーウィンの生涯』、徳間書店

同じくダーウィンについての絵本。とても特徴的なページ構成である。『種の起源』(光文社古典新訳文庫)など、ダーウィン本人の書き物は決して難しくないので、関心があれば中学生ぐらいでも読めるだろう。そのきっかけになればと思い、今回セレクトしてみた。

ガブリエル・バンサン、『アンジュール ある犬の物語』、BL出版

バンサンの『アンジュール』に出会ったときの衝撃は忘れられない。帯文には「感動」とあるけれども、感動というよりはゆっくりとどこかに連れて行かれるような感覚だった。『アンジュール』の鉛筆デッサンを見ていると、本当に目の前にスケッチブックがあって絵が描かれているという感覚と、それが意味をもって動き始めるという感覚とが常に反転し続ける。とても不思議な経験である。

ガブリエル・バンサン、『わたしのきもちをきいて』(1)、BL出版

ガブリエル・バンサン、『わたしのきもちをきいて』(2)、BL出版

ヨーロッパと日本では少年少女が置かれた立場が違う。ヨーロッパはこどもに厳しい。『わたしのきもちをきいて』に描かれてる少女の気持ちは日本では実によく取り上げられる古びたテーマに思われるかもしれないが、それがここまでみずみずしく描かれていることは、このヨーロッパ/日本の違いと無関係ではない。この物語のすばらしさは、「どうせ分かってくれない」という気持ちを分かってもらおうとする(これは日本ではよく見られるパターン)のではなく、自分の気持ちをなんとかして分かってもらおうと、少女が新しい手段に訴えかけるところである。このことがこの絵本に、単にみずみずしいだけでない、前向きな雰囲気を与えている。

ボブ・ジル/アラステア・リード、『ききゅうをろめんでんしゃに』、Phaidon

この本はなんといっても表紙がすばらしい。なんと落ち着いた綺麗な色だろう。表紙を覆うビニールカバーもいい。さすが、美術系の出版社というところだろうか。話はちょっと箍が外れたわらしべ長者といったところ。

マヤコフスキー(文)、ポクロスキー(絵)、『海と灯台の本』、新教出版社

「波が うねり、うずを まけば / たちまち / 船は 転覆だ!」 そりゃそうだ。そうなったら船は転覆するだろう。こんな風にとても当たり前のことが語られている。なのに、なぜか、力強い。それが翻訳文からも伝わってくるのだから(もちろん松谷さやか氏の翻訳もすばらしい)、それこそ、マヤコフスキーが20世紀ロシア最高の詩人たる由なのだろう。あとこのポクロフスキーの絵の格好良さったらない。ソビエトの絵本は最高だ。ぜひもっともっと翻訳してもらいたい。亀山郁夫の巻末エッセイも大変勉強になった。

ペニラ・スタールフェルト、『死のほん』、小学館

死について教えるというのは大変むずかしい。この本は葬式など具体的な話が盛り込まれており、そこに大変好感をもった。

レオ・バスカーリア、『葉っぱのフレディ いのちの旅』、童話屋

バスカーリアというアメリカの哲学者が描いた絵本である。葉っぱのいのちを通じて、死について考えさせる内容になっている。もちろん、これを読んだからといって、こどもたちが死について何かを納得することはないだろう。でも死について何かを考えるきっかけにはなる。

エドワード・ゴーリー、『優雅に叱責する自転車』、河出書房出版社

エドワード・ゴーリー、『不幸な子供』、河出書房出版社

ゴーリーの本はおそらくおとな向け絵本なのだろう。おとなが読み物としての絵本を発見するきっかけになればいいと思う。それにしても『不幸な子供』の子供は本当に不幸ですこし気が滅入った。

イワン・ポモー、『テレビがなかったころ』、西村書店

この本は翻訳されるまえにフランスで見たことがあって気に入っていた。それが翻訳されたのはうれしいし、翻訳を出版してくれた出版社にも大変感謝しているのだが、昭和30年代ブームに重ねて売りだそうとするプロモーションには疑問をもった。この本はノスタルジーとは無関係で、端的にみんながもう忘れているかつての生活を紹介しているだけである。1950年代のフランスでは、よく分からない男が学校にきていきなり子供を殴ったりしている。「あの時代はよかった」なんて気持ちはでてこない。昭和30年代ブームというのもまやかしである。

ブルーノ・ムナーリ、『木をかこう』、至光社

ムナーリはイタリアの美術家だが、デザイナーでもあり、教育者でもあり、非常に多彩な活動をした人である。その活動の一つに絵本の創作があった。「芸術家の夢は、美術館にたどり着くこと。デザイナーの夢は、市内のスーパーにたどり着くこと」とムナーリは述べ、それまで芸術の下に置かれていたデザインを芸術に並べてみせた。この絵本にはムナーリのデザイナーとしてのセンスが存分に活かされている。『太陽をかこう』という本もあるので、こちらもぜひ。またムナーリについて知るには彼の『芸術家とデザイナー』(みすず書房)がお勧めである。

ルイス・キャロル(文)、リスベート・ツヴェルガー(絵)、『不思議の国のアリス』、BL出版

ルイス・キャロル(文)、ヤン・シュヴァンクマイエル画(絵)、『鏡の国のアリス』、国書刊行会

ルイス・キャロル(文)、ヤン・シュヴァンクマイエル画(絵)、『不思議の国のアリス』、国書刊行会

今回のフェアのタイトル「こどもへの生成変化」はジル・ドゥルーズという哲学者の言葉だが、彼はその著書『意味の論理学』のなかでアリスについて長々と論じている。というわけで、今回はアリスをいれないわけにはいかない。調べてみたらいくつも見つかったので、今回は特に気に入ったものを挙げてみた。ツヴェルガーのはとぼけた感じがなんともいい。シュヴァンクマイエルは昔から好きなのでいれた。

G・アポリネール(文)、山本容子(絵)、『アポリネール動物詩集』、評論社

すこしおしゃれな絵本も。ブックスタンドでも買って飾っておくとすてきだ。毎週ページをめくるのもよいだろう。

ジェーン・グドール、松沢哲郎(訳・監修)、『チンパンジー』、大自然の動物ファミリー、くもん出版

これは絵本ではないのだが、どうしても入れたかった本(しかし品切れ!)。グドールは世界で初めて、チンパンジーと生活をともにしながらその生態を探った研究者。この本では彼女が、とあるチンパンジーのグループの生活を詳しく語ってくれている。話もおもしろいが、なんといっても写真がすばらしい! ゲーテは「サルも退屈すれば人間とみなされただろう」と言ったが、チンパンジーは本当に退屈しているように、そしてものを考えているように見える。34ページのフィフィの写真は傑作だ。物思いに耽るフィフィ。彼女はいったい何を考えているのだろう。因みに、物思いに耽るフィフィの横、35ページには、ファニが大股を開きながら、グドールから盗んだバナナをのんきに食べている写真。こういうやつ人間でもいるよなぁ。

濱井亜矢、『おじいの海』、月刊たくさんの不思議、福音館書店、2004年5月号。

86才の「おじい」こと仲村善栄さんを取材した写真絵本。彼がひとりで「追い込み漁」という特殊な方法で魚を捕るシーンは圧巻である。ゴーグルをはめると男前で、顔はつやつやしている。やはり、体を動かしていいものを食べているからだろうか。アンチ・エイジングにお金をかけているひとは、おじいと一緒に「追い込み漁」をやるといいだろう。

佐藤雅彦+ユーフラテス、『このあいだになにがあった?』、月刊かがくのとも、福音館書店、2010年4月号。

佐藤雅彦は「ポリンキー」、「ドンタコス」、「バザールでござーる」などのCMをつくったひと。いまはNHKの人気番組「ピタゴラスイッチ」の監修もしている。この写真絵本もさすがである。特に風呂のページがおもしろい。

鎌田歩、『どうろせいそうしゃ』、月刊かがくのとも、福音館書店、2009年10月号。

いろいろな仕組みを詳しく説明した絵本というのはよくあるのだが、道路清掃車に注目したところがとてもいい。夜に働いている車であるため、こどもはめったに目にしないからである。こういうものが夜働いてくれているお陰で道がキレイになっている。それを想像するだけでも楽しい。

渡辺茂男(作)、山本忠敬(絵)、『しょうぼうじどうしゃじぶた』、福音館書店

最後は『しょうぼうじどうしゃじぷた』である。なぜこれが最後かというと、私が幼い頃に一番好きだった絵本だからである。何度読んだか分からない。私がもっている一冊はボロボロになっていて、ページも一つちぎられている。自分のこどもには新しいものを買い与えた。「やあ、じぶたが いるぞ! ちびっこでも、すごく せいのうが いいんだぞ!」という最後の台詞を読むと、今でも胸が熱くなる。じぷたには、はしご車やポンプ車や救急車のような派手さはない。でも、じぷたはじぷたなりの優れた個性をもっている。これを読んでいたのは三、四才の頃のことだと思う。でも自分の考えていることはそのころから変わっていない気がする。はしご車もポンプ車も救急車もじぷたも等しく認められる哲学をつくっていきたい。

参考書として…

石澤小枝子、高岡厚子、竹田順子、 中川亜沙美、『フランスの子ども絵本史』、大阪大学出版界

村瀬学、『長新太の絵本の不思議な世界』、晃洋書

加古里子、『絵本への道 遊びの世界から科学の絵本へ』、福音館書店